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梅棹のカード法とEvergreen Notesの違い



倉下忠憲ここまでの連載で、梅棹のカード法とEvergreen Notesがほぼ同じことを言っている点を確認してきました。

総じて言えば、基本的なコンセプトは同じです。自分の考えを発展させていく手法には、何かしら共通する要素があるのではないかと強く感じられます。

という点を踏まえた上で、この二つの手法の違いにも目を向けてみましょう。

分類との距離感

梅棹のカード法では「分類はしない」と強めに主張されています。「分類するな、配列せよ」という梅棹さんの言葉もあります。もちろん、すべての情報カードを一つの箱に入れておくのは不可能なので、何かしらの区分は設ける必要はありますが、それは私たちが一般的にイメージする「分類」とは違っていると述べられています。

ある意味では、それは分類というようなものではないかもしれない。知識の客観的な内容によって分類するのではなく、むしろ主体的な関心のありかたによって区分する方がいい。

一方で、Evergreen Notesでは「Prefer associative ontologies to hierarchical taxonomies」とPrefer(〜よりも好む)が使われてて、「hierarchical taxonomies」の完全な拒絶にはなっていません。「hierarchical taxonomies」は、「階層的な分類法」なわけですから、分類が完璧に否定されているわけではないのです。

なぜかと言えば、Evergreen Notesにインスピレーションを与えたのが、ニクラス・ルーマンのZettelkastenであり、そのルーマンは二つの「箱」を使っていたからです。

一つ目の箱

一つ目の箱は、物理的なものです。

Niklas Luhmann-Archiv

上記のページで画像が出ていますが、ルーマンは複数の引き出しを持つカードボックスを利用していたようです。新しくカードを作ったら、その箱のどこかの引き出しに配置しなければなりません。それぞれのカードは固有のナンバーを持ち、そのナンバーは自分の知識の番地(住所)となり、そのナンバーに合わせて配置される引き出しも決定します。これは、「置く場所を先に決める」という点で若干トップダウンであり、それはつまり「階層的な分類法」が持つ特徴を微量ながらに持っています。

梅棹のカード法はカードにIDを与えないがゆえに、固有の「順番」を先に決める必要がありません。カードはただカードボックスに置いてあるだけです。そのカードが、その箱に置かれているのはたまたまでしかありません。いつでも別の箱に滑り込む可能性を有しています。この点は、微妙ではありながらも確実な差異になります。

二つ目の箱

もう一つの箱は、情報的なもので、上と関係しています。

Zettelkastenのメソッドでは、カードを多様な文脈に置くために、カードのナンバーを書いたカードを作成します。index的な役割を持つカードで、MOCとも呼ばれます。このMOCを作るからこそ、一枚のカードはナンバリングの序列に置かれていながらも、多様なつながりを形成することができ、それが知識のネットワーク構造の形成に役立つわけです。

一方で、そのMOCは個々のカードから見れば「親」に当たります。もちろん、単純な階層構造(ツリー構造)と違ってその「親」を複数持てるのでその構造は複雑になれるのですが、それはセミラティス(網状交差図式)と呼ぶのがふさわしい構造でしょう。あるカードが、別のカードに対して「メタ」である点はツリー構造と共通しているのです。

一方で、梅棹のカード法ではそのようなメタなカードは使われていません。そこに並ぶカードのすべては豆論文であり、カード同士の関係も豆論文として記述されることになります。つまり、「何かを入れておくためのもの」としてのカードは梅棹のカード法では出てこないのです。

どこで階層を作るか

上記の二つの点、特に後者の点があるからこそ、「Evergreen notes」では、hierarchical taxonomiesを完全否定はしていません。完全なる「階層的な分類法」ではないにせよ、それと似た性質を持つ手つきが出てくるからです。

一方、梅棹のカード法では、面白いくらいに「階層的な分類法」を感じさせるものが出てきません。すべてがフラットに(メタなものなく)並んでいます。

言い換えると、Zettelkastenでは情報を一つの流れ(配列)下にまず置き、その流れを越境するためにMOCのようなメタなカードが作成されます。対して梅棹のカード法ではカードはただ配置されるだけなので、越境すべき流れがはじめから存在していません。そして、その越境自体も一つのカードとして「記述」されます。

では、梅棹のカード法では階層は作らないのかと言えば、もちろんそんなことはなく『知的生産の技術』では梅棹は「こざね法」という執筆技法を紹介しています。これはいわゆるアウトライン操作の技法であり、文章を書くためにこの技法を駆使していたと梅棹は述べています。つまり、梅棹のカード法は階層を作らないが、しかし梅棹は階層を作るのです。技法が分かれているのです。

さいごに

最終的にZettelkastenと梅棹のカード法の比較になってしまいましたが、この二つの手法は極めて似ており、ほとんど同じといっても良いのですが、実際は違いがあります。そして、Zettelkastenの方が洗練されているように感じますが、必ずしもそうとは言えません。

もちろん、カードを書くときにナンバリングを与えることで、「このカードは、自分の考えきたこととどう関係するのだろうか」という思考を促す点は間違いなく評価できます。むしろ、そうしたことを考えるためにカードを書いているわけですから必須ですらあるでしょう。

一方で、ナンバリングですらカードを「固定」するものであることは間違いありません。いくらそこからの逸脱が可能であっても、はじめから自由である方がより可能性は広がるのではないでしょうか。もちろん、そんなことをしたら収集がつかなくなる気がします。何も位置づけを持たないのは不安定であり、不安です。しかし、その不安定さこそが、新しい形を呼び込む動力になるかもしれない点は気にかけておきたいところです。

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▼編集後記:
倉下忠憲




再校のゲラチェックに入っています。
いよいよあと一ヶ月くらいです。頑張ります。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中