デジタルノートには、大量に情報を集めることができます。それこそアナログのノートとは比べ物にならないくらいの量が、驚くほど手軽に集められます。
そのこと自体は喜ぶべきでしょう。新聞にちょこちょこはさみを入れたり、雑誌をベリベリとちぎり取ってスクラップブックに貼り付けるような手間から解放され、そこで空いた時間を私たちはより多くの情報を摂取することに使えるようになったのですから。
しかしながら、本当にそれだけで良いのかは少し考えてみたいところです。なにせ、情報の種類は単一ではありません。むしろ、多様な情報が集まっています。それらが単一のツールに押し込まれるとき、何が起きるのでしょうか。
検索すれば見つかるが
「情報がたくさん増えたって大丈夫です。検索を使えば一発です。詳細な検索で絞り込むことができます」
もちろん、その通りです。それこそがデジタルノートの特権的な機能です。雑多に情報を保存すると、名前空間が混乱し、一般的なキーワードでは検索結果があまりにも膨れ上がってしまうにせよ、何かしらの条件を付与することで絞り込んでいくことは可能です。それを繰り返していけば、いつかは情報が見つかるでしょう。
情報を一箇所に集めておくことによって、探し回ることを避けられる(いつかは情報を見つけられる)、あるいは「ここを探してないなら、ない」と中断点を設定できる、というのは情報探索においては重要なことです。よって、「使いそうな情報を、一箇所に集めておく」というコンセプトに瑕疵はありません。あとは、検索の精度と速度の問題です。十分にその速度が速いならば、上記の問題は「ちょっとした手間」で済むでしょう。
しかしです。
この話はまるっと逆転します。「検索したら情報は見つけられる」は、「検索しない限り情報は目に入らない」を意味するのです。
見つけるだけではない情報の利用
保存した情報の数が、100くらいのうちは軽いスクロールで全体の情報を「目に入れる」ことができます。しかし、数が増えるとスクロール量は増大し、階層構造はどんどん深くなっていきます。必然的に「見ようとしなければ、目に入らない」状況が生まれます。
もしすべての情報がWebクリップ的なものであったら、それでも構わないでしょう。「気になってとっておいた記事」は、必要に応じて引き出せればそれで十分です。そしてそれは通常の検索で用が足ります。
しかし、すべての情報が必ずしもWebクリップ的なものであるとは限りません。たとえば、タスクがあります。たとえば、アイデアがあります。たとえば、気をつけたいことやモットーがあります。このようなものは、「必要に応じて引き出す」こともありますが、それよりも折りに触れて目に入れることが大切ではないでしょうか。
1スクロールでは踏破できないような情報の量があり、しかも次から次へとそこに新しい情報が放り込まれてくるような「濁流」環境のとき、残念ながら折りに触れて目に入るようなことはなくなり、一度保存された情報はあたかも流れの速い川に浮かぶ葉のようにすぐさま下流へと押し流されていき、「たまたま一致するキーワードで検索したとき」にしか邂逅は叶わなくなります。
情報の種類によっては、そうした環境ではまったく活躍できないものがあります。定期的に見返したり、あるいは手を入れる(編集や修正を行う)ことが必要な情報は、「保存してあって、検索したら見つけられる」という環境では十分ではないのです。
包括的であるからこそ
デジタルノートは、極論すればすべての情報が0/1の信号に置き換えれて、それらを均一に扱うことを可能とします。それは素晴らしいことです。いくつかのデジタルノートでは、テキスト情報以外に画像やファイルなどを保存することもできます。そのような包括性はデジタルツールの白眉といって間違いありません。
一方で、そうしたメディアの多様性とは別に、情報はその用途において種別を持ちます。当然、その種別によって適切な扱い方は異なるのです。
「このデジタルツールを使えば、すべての情報を一元管理できます」と謳うものはたくさんあります。それは間違いなく便利なものでしょう。しかし、そうしたツールにさまざまな情報を保存する際に、私たちは何も頭を使わなくてよいわけではありません。多様で雑多な情報を保存していくならば、保存される情報を自分はどのように扱いたいのかを検討し、それに合った運用方法を構築していく必要があります。
先ほども書きましたが、情報はその用途において種別を持ちます。その種別は置かれた環境や当人がやりたいことによって変わってくるので、統一的なモデルを厳密に示すことはできませんが、それでも「すべての情報の扱いが同じというわけではない」という点は普遍的に言えるでしょう。
それぞれの種別に合わせて保存するツールを替えるならば運用方法についても自然に個別検討が生まれるでしょうが、単一のツールに保存していく場合は意識的な検討が必要となります。そうでないと、「日々発生する大量の情報の扱い」がデファクトスタンダードになり、その他の情報たちが憂き目を見ることになります。
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現代でも『知的生産の技術』が読まれ、評価されているのは愛読している私としても嬉しいものですが、それでも現代の文脈を踏まえてこの本の内容が新しく提出されることを願っております。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。