『インターネット・バカ』や『知ってるつもり 無知の科学』などを読むと、自動化していくことは省力化につながるし、ヒューリスティックなミスも減るけど、脳がどんどん衰えていくのではないかという懸念にぶつかります。
もう少し言えば、「バカになる」というのではなく、「鍛えられる環境が失われる」と表現するのが適切でしょう。運動しなくなると筋力が衰えるのと同じです。使わないものは、弱化していく。ごく自然な流れでしょう。
もし自動化によって得た余力を別のことに使って「頭を働かせて」いるならば、脳が衰えることは避けられるででしょうし、むしろそのために自動化はあるはずです。
問題は、それができているかどうかです。
死蔵するWebクリップ
まぎれもなく最強のデジタルノートツールとして一時期君臨したEvernoteは、Webクリッパーとして今でも代替がきかない存在と言えます。気になったWebページ上で、ボタンを一つ押せばそれが「自分のライブラリ」(これは極めて重要な概念なので太字にしておきます)に取り込まれる。
Webという新しく広大な情報スペースに遭遇した私たちにとって、その情報の保管庫は動かしがたい魅力を持っていました。
そして、そこから10年経ち、私たちはそうして蓄えたWebの情報をどれだけうまく使えているでしょうか。実績でも構いません。体感でも構いません。使用できている割合を考えてみると、1%にすら届かないのではないでしょうか。
それはなぜなのでしょうか。よく言われるように、やはり「本」と違ってWebにはたいした情報がないからでしょうか。
もちろん、それは否定しきれませんが、それだけではないでしょう。あまりに簡単に私たちがWebクリップできてしまうのが問題なのです。
負荷と価値と身体化
『謎床』で、ドミニク・チェンさんは以下のように述べています。
それより問題は、そうやってアクセスした情報、つまり、ほとんど何ら身体的負荷、精神的負荷をかけずにスルスル入手した情報というものを、人は非常に粗雑に扱ってしまう、ということなのです。
たとえば、この話を逆から眺めてみると、「負荷を経て入手したものは人は大切に扱う」となります。たとえば、その一つの表れが「サンクコスト」であり、あるいは認知的不協和の解消として位置づけられるかもしれません。こうした言葉はたいていよくない文脈で用いられるのですが、それをくるっとひっくり返せば、手間を掛けて入手した情報を人は(無意識に)大切に扱う、とも言えるわけです。あとは、その力(傾向)をどのように利用するのか、という視点になるでしょう。
あるいは、同じ本にこんな話もあります。
(前略)あらゆる情報にアクセスできてしまうがゆえに、すべてが悪い意味で身体知にならないということがおきてしまうんですね。
ここで思い出すのが、『ゲンロン戦記』のファイリングの話です。
(前略)ファイルはたしかにデジタルでクラウドにおいてもいい。けれども、それだけでは社員は仕事の存在を忘れてしまうのです。契約書や経理書類を紙に印刷し、目に見えるものとして棚に並べるのは、仕事があることを思い出させ続けるためだと思います。
これは情報を物理的に配置することによって、それを「環境」にし、常に知覚的なフィードバックの中に曝すことを意味するのでしょう。でもって、意識は情報的であっても、私たちの存在はあくまで物理的に存在しているわけですから、情報を「私」に接続するために、物質化するのは決して懐古的でも退行的でもなく、単にごく自然な性質を利用しているだけと言えます。
さらにこんな記述もあります。
ぼくが当時、領収書を打ち込みフォルダをつくりながら考えていたのは、そのような「経営の身体」はデジタルの情報だけでは立ち上がりにくいということでした。紙の書類を印刷しフォルダにして書棚に入れると、情報がオフィスのなかで特定の場所を占めるので、全体が身体的に把握しやすい。
ここでも「身体」という言葉が出てきました。ここでいう「身体的な把握」とはどのような意味でしょうか。
それを理解するために、『もっと! : 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』に出てくる「身体近傍空間」と「身体外空間」を補助線に引いてみましょう。
私たちにとって、すぐに利用でき、把握できている(支配できている)ものが「身体近傍空間」に位置されます。
領収書を打ち込み、それをフォルダにして書棚に場所を決めて差し込むとき、私たちはその情報を「身体近傍空間」に引き込んでいると言えるでしょう。それが情報の身体化であり、身体的な把握なのだと言えるかもしれません。
私たちが手間をかけたものは、身体の近傍に位置するようになり、言い換えれば、その位置づけが行われ、それにより価値を置くようになり、またその「意味」もわかるようになる一方、手間をかけないものは、その情報と「お近づき」になることができず、貯蔵庫に溜まる一方になっていく。
そんな定式化ができるのではないでしょうか。
最初の疑問
もちろん、より込み入った議論が必要でしょう。たとえば「手間をかける」とはどういうことかを検討しないことには、この話の具体性は立ち上がってきません。また、溜まる一方で何が悪いのだ、という別の角度からの反論もありえます。
そうしたことは引き続き検討していきますが、まずこの連載においてテーマにしたいことが確認できたように思います。
「自動化が可能なデジタルノートにおいて、わざわざ手間を掛けることの価値はあるのか。あるとすればそれは何なのか」
こうした問題提起は、デジタルノートが(自覚的か無自覚かはさておき)自動化を促進していくベクトルを持つがゆえに重要です。そのツールを使っていると、自動化が前提となってしまい、それ以外の角度から考えにくくなるからです。「便利だからそれでいいじゃん」となりがちなのです。
しかし、一度前提を疑ってみることは、「考える」ことの基盤であると言えますし、それが新しい道のりを開拓するために必要な知的営為だとも言えます。
だからこそ、このテーマから取り組んでいきましょう。
▼言及した書籍:
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。