前回からの話を続けます。
カードには1つのことを書く。これを実践することで、私たちは思考のネットワークにノードを増やしていけます。なぜでしょうか。『知的生産の技術』を探索してみます。
組み替えが必要
ノートの欠点は、さきにのべたように、ページが固定されていて、かいた内容を順序が変更できない、ということである。ページをくみかえて、同じ種類の記事をひとところにあつめることができないのだ。
以上は綴じノートの欠点として語られています。言い換えれば、ノートではないカードにはこの欠点を解消できる特徴がある、ということです。
忘れるために書く
頭のなかに記憶するなら、カードに書く必要はない。カードに書くのは、そのことをわすれるためである。わすれてもかまわないように、カードにかくのである。
暗記するために書くのではなく、それを一時的に忘れてもいいように、カードを読み返せばそのことを思い出せるように書くわけです。
一つのことを書く
フィルムのたとえをつづけると、いちばんこまるのは二重うつしをやってしまうことだろう。二つの内容が一枚に入っていて、どちらにも利用できないのだ。
カード法の初心者は、たいてい一枚のカードにたくさんのことをかきすぎて失敗するようだ。おもいきって、ちいさい要素にわけたほうが成功する。
二重うつしになってしまうと困るが、しかし初心者はそれをやりがち、という話です。
カードの操作
カードの操作のなかで、いちばん重要なことは、くみかえ操作である。知識と知識とを、いろいろにくみかえてみる。あるいはならべかえてみる。そうするとしばしば、一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだに、おもいもかけぬ関連が存在することに気がつくのである。そのときには、すぐにその発見もカード化しよう。
カード化することの最大の目的は、くみかえること。くみかえて「おもいもかけぬ」関連をみつけることです。
そのうちにまた、おなじ材料からでも、くみかえによって、さらにあたらしい発見がもたらされる。
一つの新しい発見を生み出した材料からでも、新しい発見がもたらされることがあります。
二つの原子
さて、上から言えることはなんでしょうか。
一つのカードは二重写しになっては(つまり、一つのカードに複数の事柄が記述されていては)困るのですが、しかし、その一枚のカードから複数の新しい発見がもたらされると述べています。前者は多重性を否定していて、後者はそれを肯定しています。どういうことでしょうか。
もちろん、話は簡単です。
一枚のカードに二つの事柄が書かれているとき、それは二個の原子がくっついていて、まったく動かせない状況を意味します。たしかにそこには要素同士の関連があるのですが、かたく結びついてしまっているわけです。
そして、その結びつきは、自分の頭の中にあります。たとえばその二個の原子をAとBとするなら、私の頭の中でABはセットになっていて、一つの事柄として認識している、ということです。当然、既知の知識なので、自分にとっての「新しい発見」がそこからもたらされることはないでしょう。
「カードには1つのことを書く」を意識すると、AとBに切れ目が見えてくるようになります。ABとして認識されていたものが、A・Bのように認知が切り分けられるのです。その認知に合わせて、カードが2枚書かれます。大切なのは、その認知の変化です。カードが二枚書かれることではなく、二枚のカードが書けるように自分の認知を動かしたことが大切なのです。
分けるからこそつなげられる
そうした認知の変容が起きると、組み合わせの数が急に増えます。
ABの状態では、「ABと適切な関係を結べるもの」だけが接続可能だったのに対して、A・Bの状態になると、「Aと適切な関係を結べるもの」「Bと適切な関係を結べるもの」が接続可能なるのです。そしてもちろん、「A・Bと適切な関係を結べるもの」との接続可能性も保持されています(カードを3枚並べればよいのです)。
物事を非常に大きな塊で捉えていると、このような細かいリンクの接続が難しくなります。逆に、一つひとつを細かく捉えるようにすると、「あれとこれ、つながってるじゃん」とはっきり認識しやすくなります。だからこそ「カードには1つのことを書く」を実施していると、思考のネットワークにノードを増やしていけるようになるわけです。
さいごに
ここで面白いテーゼが出てきます。
「より大きなことを言おうとするならば、できるだけ小さく切り出す」
たとえば、自分の認識が、
- AB
- CD
- EF
- GH
のような状態だったとして、これを適切に組み上げるのは至難の業でしょう。それぞれがなんとなく近しいとはわかっていても、その近しさが漠然としていてうまくくっつかないからです(概念的近接性を確立できない、ということです)。
しかし、
- A・B
- C・D
- E・F
- G・H
であればどうでしょうか。少なくとも「A・B・C」のような三つの原子を持つものは作りやすくなりますし「A・B・C・E・H」のような化合物も生成も視野に入ってきます。こちらの方が、よい大きいものを作りやすいのです。
しかしながら、「でも」と思われるかもしれません。「AとBがバラバラな状態だと、その結びつきが消えてしまうのでは」と。たしかに、明日から急に「A」と「B」のような認知に変わってしまうならば、発想力そのものが変質してしまうでしょう。でも、そうではないのです。
「カードには1つのことを書く」とは、「AB」として認知したものを「A・B」に切り分けましょう、という話なのです。別段「AB」の認知を阻害しているわけではありません。思いつくときはセットでもよく、ただカードを書くときにそれを分けよ、と述べているだけです。
だから、逆に言えば「AB」から「A」(ないし「B」)が生成されるとき、それはすでにもう片方へのリンクを持ったものとして生まれてきます。Aだけを思いついて、Bだけを思いついて、というのではなく、思いついたABをAとBに切り分けて、それをリンクでつないでおく、というのが「A・B」の状態なのです。
この点を理解しておけば、さらにカードの書き方が(知的生産方向に)深まっていくでしょう。
それについてはまた次回検討します。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。