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アイデアは捨て置いてよい、と考える



倉下忠憲さて、ながらく梅棹忠夫のカード法とEvergreen Notesの共通点・相違点について確認してきました。

デジタルノートテイキング連載一覧

すでに記憶は薄れつつあると思いますが、そもそもこの話題に言及しはじめた発端は、「デジタルで情報を扱う行為」についての分析でした。その中で、アイデア的情報の扱いが難しいことが確認され、その一つの解法として梅棹忠夫のカード法とEvergreen Notesの探究が行われたわけです。

その探究で明らかになったことはいくつもあるわけですが、重要なのは「文章として書き下ろす」という活動でしょう。走り書きのメモではなく、文章として成立しているノートを書く。そんな風に言えるかもしれません。

キャッチーなフレーズを考えるのがうまい梅棹はその行為を「豆論文として書く」と表現しました。

たとえ小規模であっても、他の人に自身の活動と思考を説明するために書く論文と同じ心持ちで臨め、というメッセージはたしかに有益だと思いますが、問題は私たちの多くが論文を書いたことがない点にあるでしょう。おおむねそれがどのような行為なのかは推測がつくにせよ、実感が伴わない理解になりがちなのです。

その理解を助けてくれるのがEvergreen Notesです。そこにあるコンセプトの一つ、「Evergreen notes should be atomic」を丹念に検討すれば、理想的な「カードの書き方」が明らかになります。

「atomic」であることは、可能な限りギリギリまで絞り込んで情報を留めることを意味しつつ、それだけで成立する一つの十分な情報を盛り込むことも意味しています。過不足のない最小単位、という言い方をしても良いでしょう。多すぎてはatomicではありませんが、小さすぎてもatomicではありません。ゴルディロックスな粒度が求められるのです。

よって、以下のような走り書きのメモはatomicであるとは言えません(私の実際のアイデアメモから)。

  • 「悩んでいるときは、一つ階層を上がる」
  • 「アンビエント・アンビバレント」
  • 「一年の目標ではなく、人生の目標を一年ペースで確認する」

これらは断片的な書き留めですが、atomicと呼ぶには断片的すぎるのです。そしてもちろん、こうしたものは豆露文でもありません。それはもちろん、タイトルだけ書いてある原稿用紙を「論文」とは呼ばないことと同じです。中身があってこその論文であり、豆論文もそれは同じです。

だからより現代的かつ非-アカデミックにこの行為を表現するならば「本文を書きタイトルをつける」となるでしょう。情報カードを使っているなら自然に促される行為ですし、Scrapboxもまさにそうなっています。本文があり、タイトルがあります。例外的にタイトルを空欄にしたり、本文を未記入にしておくことはできますが、それはあくまで「後で書こう」的な処理であって、本線は「本文を書きタイトルをつける」行為にあります。

ここでつけるタイトルは、本文全体を集約したものではありますが、本文ではありません。だから、タイトルを本文にしたり、本文をタイトルにしてはいけません。本文を書いてからタイトルをつけるか、タイトルを決めてから本文を書くのです。

「え~、めんどいよ~、勝手にタイトルつけておいて」と思われたかもしれませんが、私の10年程度の経験からいって、そのような処理を行わず、ただ書き留めただけの走り書きメモでは「知的生産」は何も進みません。何もです。nullです。

なぜなら、本文を書いてからタイトルをつけたり、タイトルを決めてから本文を書くことがまさに「知的生産」そのものだからです。ごくごく小規模であっても、そこでは「知的生産」が行われています。だからこそ、自らの「知的生産」を少しでも進めたければ、面倒な処理を行う必要があります。
*この文脈から見ても梅棹がこの活動を「豆論文」と呼んだのは非常に適切であることがわかります。

むしろ逆から捉えるべきでしょう。知的生産という巨大要塞を一気に大掛かりに攻略するのではなく、それを小さく分割して少しずつ攻略していくことが、むしろ面倒さを減らすことにつながるのだ、と。

面倒さをゼロにするのではなく、それを細かく分割して進めていくのが梅棹のカード法であり、Evergreen Notesだと言えます。

着想をメモしているだけでは

知的生産を前に進めていくためには、閃きや着想を捉えることは欠かせません。だからこまめなメモの習慣はほとんど必須のものだと言えるでしょう。しかし、そうしてメモされた着想は、知的生産の素材になるにせよ、素材にしかならないこともたしかです。スーパーに行って食材を買っただけで「料理」した気分になるのは何かが足りていませんが、それはメモと知的生産の関係にも言えることです。たくさんの着想メモを書き留めただけでは、知的生産はぜんぜん前には進んでいないのです。

だからこそ豆論文を書くような行為、つまり、「本文を書きタイトルをつける」が必要なのですが、それは面倒である以上に時間を必要とします。そして人間の手持ちの時間は上限があります。

さて、ここで問題が生じます。片方ではせっせとメモが行われて貯まっていく素材があり、もう片方ではそれらのすべての「処理」に時間を使えない人間存在があります。このギャップはどのように解消したらいいのかというと、諦めるのが肝心です。そもそも無理な要求なのです。

理想を言えば、すべての着想メモに等しく注力していく「べき」でしょう。しかし、人生のあらゆる活動を捨て置いたとしてもその「べき」は達成できません。だから、その「べき」の方を捨てましょう。たとえば、学校の先生はクラスの生徒全員に注力していくことはできるでしょうが、それと同じ注力を学校の生徒全員に向けることを要求するのはあまりにも酷です。名前を覚え、気を配ることはできても、クラスの生徒に向けるのと同じ力を注ぐことはできません。だからこそ、それぞれのクラスには担任がいるのです。

着想メモとのつき合い方も同じような濃淡を持つことです。とりあえず、記録することは記録はするけども、そのすべてを等しく育てる「べき」だという観点は捨てましょう。そうではなく、そのときの自分が注力できる数が限られた対象に意識と注意と思考を向けて育んでいくのです。その他の着想メモは捨て置いて大丈夫です。

幸いデジタルではいくら放置しておいても、その記録がくしゃくしゃになってゴミ箱に捨てられていたり、文字がかすれて読めなくなったりすることはありません。取り出そうと思ったら、取り出すこと自体は可能です。それに、仮に取り出すことができるにしても、来年の自分はまた新しい注意の対象を見つけてそこに注力しているでしょうから、実際それらが「掘り起こされる」ことはほとんどないでしょう。

別にそれで構わないのです。というか、人間が有限な存在である以上それは仕方がありません。大切なのは、そのときそのときの自分が十全に「知的生産」しているかであって、「使えたかもしれないアイデア」を心配することではありません。

この点がデジタルノートを使っているときに、逆向きに起きてしまう心境です。つまり、すべてを完璧に保存しておけるので、それらを使わなければならない気持ちがしてくるのです。しかし、人間は有限なのでその気持ちには常に不全感が残ります。これはあまりよろしくない状態です。

だから、「アイデアは捨て置いてよい」と考えておきましょう。「捨てる」ではなく、「捨て置いて」いるので復旧は可能だと自分に言い聞かせて心の声をMuteするのです。その上で、そのときの自分が関心を向ける着想について本文を書き、タイトルをつけていきましょう。

日々小さな知的生産を。

これが一つの合い言葉になるのかもしれません。

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▼編集後記:
倉下忠憲




新刊のAmazonページがついにできました。書影などはまたこれから入ってくるかと思いますが、ご興味あればご予約ください。
 
すごく面白い本になっていると思いますし、これまでの倉下の本とは一風違った出来になっているとも思います。
 
『すべてはノートからはじまる』


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中