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情報運用のトレードオフポイント



倉下忠憲前回確認したように、すべてがフローになってしまうと情報にアクセスするためにひどい苦労を背負うことになります。何かしら固定されたものがあり、それが身体知として取り込まれるからこそ素早い操作が可能になるわけです。

一方、すべての「情報」を覚えることはできません。もしそれができたら、あらゆる情報を随意に操れることになりますが、そもそもそれができないからこそノートという外部記憶装置を使っているのです。

よって、すべての「情報」を身体化する必要はありません。全体の運用が最適になるように、ある部分だけを「使える」ようになればよいのです。

ここで問題になるのが、「使う」という言葉です。

情報を「使う」とはどのような意味でしょうか。

「電話をかける」に必要な知識

電話をかけるとしましょう。一昔前ならば、「電話帳に電話番号が記載されている」という知識があり、その電話帳の置き場所を知っているならば、電話はスムーズにかけられます。

もちろん、一番スムーズなのは、その番号を暗記していることですが、すべての番号を暗記するのは現実的ではありません(≒最適な運用とは言えません)。逆に、電話帳の置き場所はわかるが、どのページに書いてあるかの当りがつかないと、スムーズさは少し損なわれます。

この例からわかるように、全体に含まれる部分をどの程度覚えるかは、ただ一つの正解があるのではなく、支払うコストとそれによって得られるベネフィットのトレードオフを受け入れることです。

言い換えれば、二つの極があり、その間に引かれている線のどこかの上に、「自分はこの辺に点を打つ」と位置づける行為なのです。

そして、各々の段階において、違った形で知識や情報が「使われて」います。

デジタルナイズド

では、電話をスマートフォンに置き換えてみましょう。おそらく電話番号を暗記しているということはほぼなく(なぜそうなっているのかは別の面白い検討課題です)、私たちは電話のアプリか連絡帳のアプリから「電話をかける」という動作にアクセスするでしょう。なんなら人工秘書の助けを借りることもできます。

この段階でわかることですが、デジタル化したことで、「電話をかける」までのアプローチが複数化しています。道がいくつも組み立てられるようになっているのです。

それはともかく、電話番号そのものを暗記する必要もなく、「電話帳の置き場所」を覚える必要もありません。ただし、電話帳のアプリの場所を(指が)覚えていると動作はスムーズになります。頻繁に電話をかける場合は、そのアプリをDockに置いておく(Pinする、ということです)こともできます。

仮に電話アプリの置き場所を「見失った」としても、検索で探すことができます。その際に必要なのはそのアプリの名前です。それを名指すものさえ思い出せるなら、検索経由でアプリを見つけ出し、そこから電話をかけられます。

最終手段として、Siriに「電話をかけたい」と自分の思いを直接ぶつける方法もあります。人工秘書の能力が高まれば高まるほど、私たちは何も覚えることなく、正確に名指すことができなくても、その目的を達成できるようになるでしょうが、それはまだもう少し先の未来のようで、いまのところは人工秘書に「通じる」言葉を覚えておく必要があります。

知識の直接と間接

ともかく上記のように、何かを覚えていればいるほど、それが最終的な行為に近しいものであればあるほど、私たちはそれをスムーズにこなすことができます。

また、そのもの直接を覚えていなくても、それにアクセスするためのキーさえ覚えているならば、何かしらのルートを辿ることで情報・行為へのアクセスは可能になります。電話をかけたいときには、最低限「電話」という言葉さえ思い出せるなら、かなり遠回りすることがあっても、最終的にはそこにたどり着くことができます。

もちろん、「たどり着くための手順」の知識も必要ですが、再帰的に捉えれば上と同じように考えられます。キーとなる知識の近さと、手間。それが関係しているのです。

すべての物事は、面倒そうから始まる

たとえば、電話アプリの置き場所を覚えることは、「電話をかける」という行為にとって本質的ではないでしょうが、しかしそれを覚えておくことでスムーズに行為がこなせるようになります。すると、その行為が「やりやすく」なります。

これは逆に考えてみればよいでしょう。ある行為の手順が不明瞭だと、その行為に取りかかるのが億劫になるのです。そうした億劫さが消えているのならば、それは「やりやすく」なっていると言えます。

もちろん、その「やりやすさ」は感じられません。ただ普通にやれるだけです。新しくプラスを付与しているのではなく、既存のマイナスを削除しているだけなので、その効果は体感されませんが、たしかに「やりやすく」なっているのです。

ここでは、物事の見方の小さなシフトが行われいます。人物Aがいて、行為Bがあるとき、その二つにまだ何の関係も構築されていないなら、その二つはフラットにつながっているわけではなく、むしろ「面倒そう」というマイナスの接続からスタートしている、という捉え方です。定式化すれば、「すべての物事は、面倒そうから始まる」のです。

もちろん、幼児を対象にとれば、上記の言説は簡単に否定されるでしょう。しかし、ノウハウが対象にするのは幼児ではありません。すでに経験を積んでいる大人です。その大人の中には、すでに物事の重要度に対する陰影が生まれているのです。ある行為に慣れていれば、そうでない行為は面倒に感じられる。そういうことが起きているのです。

そのような陰影を無視して、行為とフラットな状態から関係を結んでいけるとする想定は、理想的ではありますが、実践的ではありません。実践的に考えるならば、ナチュラルに発生してしまう「面倒さ」とどう付き合うかがポイントになるでしょう。

それはデジタルノートを使うこと、もっと言えばデジタルノートを通して「情報」を使うことにおいても言えます。

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▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中