さて、ここまでの連載でEvergreen Notesと梅棹のカード法の原則を比較し、そこある共通点を検討してきました。
▼前回の記事
デジタルでカードをくること | シゴタノ!
繰り返しになりますが、もう一度それぞれの原則を列挙しておきます。
Evergreen Notes
- Evergreen notes should be atomic
- Evergreen notes should be concept-oriented
- Evergreen notes should be densely linked
- Prefer associative ontologies to hierarchical taxonomies
梅棹のカード法
- 「カードは、豆論文である」
- 「カードは、一枚に一つのことを書く」
- 「カードは、何度もくる」
- 「カードは、分類しない」
今回は4つめの原則を取り上げます。
この原則が、情報整理において肝となります。
カードを分類しない理由
まず梅棹のカード法からいきましょう。
カードのことをいうと、だれでも、分類はどうするのか、ということを気にされるようである。
あるいは、カードといえば、かならず数千枚、数万枚のカードが整然と分類されて、ケースに保管されているところを想像するようだ。
しかしこれは、カードというものは知識を分類して貯蔵するものだという、たいへん普遍的で、またむりからぬ誤解からくるまちがいである。
すくなくとも、知的生産の道具としてのカードは、そういうものとはすこしちがうのである。
「カードを使って知的生産」という言葉から一般的にイメージされる風景が、まずここで否定されています。
書き留めたカードは、「整然と分類」して、カードケースに保管しておくものではない、というのです。
ではなぜ、分類をしないのでしょうか。
こういうわけだから、カードは何枚たまっても、その分類法についてあまり神経質になる必要はない。
分類法をきめるということは、じつは、思想に、あるワクをもうけるということなのだ。
きっちりきめられた分類体系のなかにカードをほうりこむと、そのカードは,しばしば窒息して死んでしまう。
分類は、ゆるやかなほうがよい。
ここでは実に機微のある表現がされています。分類と呼びうるものすべてが否定されているのではなく、分類に神経質になること、ないしは「きっとりきめられた分類体系」に従うことの弊害が語られているのです。
「きっちりきめられた分類体系」は、それが「きっちり」していればしているほど、「強さ」を持ちます。それぞれのカードは適切に分類され、その配置から動くことが妨げられます。新しい情報のつながりを生み出すのではなく、分類体系下に配置されて、それで終了するのです。
しかし、知的生産におけるカード法とは、書いたカードを使って考えることでした。よって、配置して終了となったのでは意味がありません。むしろ、意味がないのに何かをやった気になっているという意味で有害ですらあるでしょう。
そのような状態に陥らないために、梅棹は「カードは分類しない」というキャッチーな表現を用いているのです。私たちが大量のカードを目にするとき、それを分類して、体系下に収めたくなる傾向を持つからこそ、その傾向に打ち勝つために言葉のエンジンが吹かされているのです。
ある意味では、それは分類というようなものではないかもしれない。
知識の客観的な内容によって分類するのではなく、むしろ主体的な関心のありかたによって区分するほうがよい。
なんとなく興味があるのだが、どういう種類の関心なのか自分でもはっきりしない、というようなこともすくなくない。
そのときには、「未整理」とか「未決定」とかの項目をたてて、そこにいれればよい。
未整理のカードがいくらふえても、いっこうにかまわない。
それこそは、あたらしい創造をうみだす源泉なのである。
ここで二つの対比が出てきます。「知識の客観的な内容」と「主体的な関心のありかた」です。
言うまでもなく、「知識の客観的な内容」は「きっちりきめられた分類体系」と対応します。それらは複数の人間が同意できる粒度で情報が整理されており、その分類になるのは「客観的な内容」です。むしろ、客観性がなければ、万人が使える体系にはならないでしょう。
一方で、「主体的な関心のありかた」は、「きっちりきめられた分類体系」を作りようがありません。第一に自分の関心の粒度はバラバラであり、重複や欠落を面白いほど備えているからです。そして第二に、梅棹が書いているように「どういう種類の関心なのか自分でも」わからないことがあります。これで「きっちりきめられた分類体系」を作れるはずがありません。
情報整理ツールにおける不幸な出来事の多くはこの二種類の混同にあります。つまり、本来それが無理であるはずの「主体的な関心のありかた」を「きっちりきめられた分類体系」であるかのように扱う(ないしはそう仕立てる)ことが起こるのです。そしてそれは──非常に残念なことに──ある種のツールの在り方が促進させてしまう傾向でもあります。「さあ、あなたの情報をきっちりと分類しましょう」とツールが促すとき、私たちは自らの関心事を適切な分類軸によって整理しようとします。
情報ツールを使い続けていると生じる苦しさの半分くらいはそうした「無理な変換」から起きているのではないでしょうか。
まとめ
まず今回は梅棹の「カードは分類しない」について検討しました。別段カードを無政府状態におくことが推奨されているわけではありません。単にあらかじめ決めた強い分類に従わせる必要はないと説いているだけです。しかし、私たちはつい「先に分類」しようとしてしまうので、そこでは強い明言が必要なのでしょう。
では、Evergreen Notesではどうなっているでしょうか。それについては、次回検討しましょう。
(次回につづく)
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。