前回の終わりに、以下のように書きました。
言い換えれば「何も考えずに放り込んでおけばOK」という情報ツールはその「何も考えない」という所作において知的生産的問題を発生させる、ということになります。この点が、後者の「手間を省くことを追求するばかりに、手間を掛けることができなくなる」とも関わってきます。
今回はこの点を確認しましょう。知的生産活動において極めてクリティカルなポイントです。
二種類の情報の違い
まずは苦いお話から。
私は長い間Evernoteを使っています。もう10年以上にもなります。当然ノートの数も膨大になり、7万を超えるノートが一つのアカウントに存在しています。で、それらのノートがどれだけ「活躍」したのかといえば、残念な結果であったと言わざるを得ません。特に「アイデアノート」と呼びうるものたちは、その大半が死蔵されてしまうことになりました。
一方で、「資料」や「備忘録」と呼びうるノートたちは、頻度は少ないものの時間が経っても検索して見つけ出し、それなりの活躍をさせることができています。同じ”情報”といっても、性質が違うことがこうした点からも確認できます。
では、その二者はどのように異なるのでしょうか。
簡単に言えば「手間の必要性」の違いです。
「資料」や「備忘録」は、ある意味で”もう完成している”情報です。前者は他の誰かがアウトプットした情報であり、後者は自分が書き留めた時点で静止している情報で、そのどちらも”それ以上の手間”を求めません。多少のメンテナンスは必要であっても、それだけです。
一方で「アイデアノート」は違います。それらはまだ断片であり、もっと言えば種のようなものです。それを記録し、保存することは「スタートを切る」ことであって、「ゴールにたどり着く」こととは違います。保存してから、そこに手間をかけることではじめて花を咲かせることができるのです。情報が「活きる」のはそこからです。
この点が、二者の情報的違いであり、扱いの違いにもつながってきます。
「楽」に流れてしまう
だったら、「アイデアノート」に手間を掛ければいいじゃないかと思われるでしょう。私もそう思います。でも、なぜだかうまくいかなかったのです。
長らくその「謎」と悪戦苦闘していたのですが、処々の事情でいったん通常の「情報摂取」をほとんどやめてしまった後で、その答えに気がつきました。
楽に情報を集めすぎていたのだ、と。
私は、常時「アイデア関数」を脳内で駆動しているので本当にいろいろなこと(その大半はしょーもないこと)を思いつきます。それらをFastEverというアプリでキャッチし、Evernoteに送信していました。
また、EvernoteのWebClipperはすごく便利なので、読んだページは次々とEvernoteに保存していました。そして、たくさんのブログやニュース記事を毎日読んでいたのでEvernoteには次々ノートが増えることになります。
それ以外にもAPI連携を使い、毎日のツイートを保存したりとか、Gmail経由でノートが作られたりとか、買った本のページが自動的に作られるとか、そういうことをやっていたのです。
なにせ「楽」にノートが作れるのです。そして、情報は増えるほど価値があります。だから、何も気にすることなく情報を増やし続けていました。
一方で、私という人間が持つ時間は有限です。しかも、生活のために使う時間もあるので、いわゆる「情報処理」に使える時間はかなり限られています。仮にその時間量を t としましょう。その t 時間で私は自分の情報に「手間」をかけていくことになります。
つまり、私が保存する情報の量を m とすれば、m / t が一つの情報にかけられる手間時間の平均ということになります。
そうした状況において、m がどんどん増えていけばどうなるでしょうか。t は一定なので、 t / m は相対的に小さくなります。つまり、手間をかけられなくなるのです。
気持ちの面でも
上記は数学的な考え方ですが、心理的な考え方もできます。
たとえば一日に50個新しくノートができたとして、それらに「手間をかけたい」と感じるでしょうか。それとも「手間なく処理したい」と感じるでしょうか。おそらくは後者でしょう。大量の情報がinboxに増えると、それらを適切に処理するよりは、ざっとスキャンして、ぱぱっと別のノートブックに移動させて終わりにしたくなります。
そもそもが、「楽に保存」している段階で、心理のベクトルが「楽」な方向に向いています。楽に保存したから、楽に処理する。ナチュラルな流れです。
よって、ただ保存してあるだけで役目を果たせる「資料」や「備忘録」は問題なく使えるのですが、手間が必要な「アイデアノート」はうまく使えないという結果が導かれるのです。
全体を再構築する
しかしながら、上記は別にツールの問題ではありません。極論すれば「私の使い方が悪い」というだけの話です。
実際、私が上記のような問題に悩まされなくなったのは、ツールの使い方を変えたからというよりは、「情報摂取」のバランスを見直した点によるところが大きいのです。ブログやニュース記事を読む量を大幅に減らし、書籍などのまとまった情報に腰を据えて接する。その際にきちんとメモを取るようにする。ようするに「手間をかける」ように情報摂取を再構築したのです。
こうすると、保存されるノートは、飛躍的に「活躍」の機会が増えます。必要な手間がかけられているからです。
※このあたりの話は『TAKE NOTES!――メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる』に通じます。
ようは、「ツール」だけを見ていてもダメなのです。自分の情報生活(知的生産活動)の全体を見据え、その中にツールを位置づけていかないと、必要な改善は望めません。時間の使い方、情報摂取の対象、どのように思考を進めていくか。そうしたことの中で、「ツール」の役割を考えることが必要になっています。
※だからこそ『知的生産の技術』では「カード法」以外のことが包括的に論じられています。
その論点を抜いて、ツールの良し悪しを論じても──軽トラとフェラーリがどちらがいいかを論じるくらいに──不毛な話になってしまうでしょう。
さいごに
結局のところ、私のデジタルノートの歩みはかなり不毛なものになっていたわけですが、それだって一つの経験です。
そもそも、15年前には“一般的な市民が「デジタルノート」を長期間使い続ける”という体験を誰もしていなかったのですから、うまくいかなくても当然でしょう。獣道だったわけです。
しかしながら、2021年の現在には10年分くらいのノウハウ(と失敗の経験)が蓄積されています。その意味で、ようやくここからが「デジタルノートの第一歩」を踏み出せるタイミングなのかなと、そんなことを考えています。
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ちなみに今回のお話は、『かーそる 2021年7月号』で「デジタルノートのディストピア」として(もっとわかりにくく)書いています。ご興味あればそちらもどうぞ。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。