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轍を辿って轍を踏む

継之助はいう。武士にとって最高のモラルはいさぎよさということであり、この道徳美は自分が武士であるかぎりまもらねばならぬ。この場合、家や家禄やわが身のいのちを目方にはかって行動をきめるようでは武士が立たず、その原則から考えれば、ぬく手もみせず肥かつぎの首をはねるべきであろう。

が、そうもいかぬ。別に、それと同じ重さの原則がある。百姓のいのちということである。当然、人間の本然のあわれみという惻隠(そくいん)の情というのがおこるべきであり、この情こそ仁の根本であると儒教ではおしえている。武士の廉潔(れんけつ)をまもるか、惻隠の情という人間倫理の原理にしたがうべきか、その両原則がたがいに相容れぬ矛盾としてそそりたっているだけに、この場合の判断が容易にできぬ。

「人間万事、いざ行動しようとすれば、この種の矛盾がむらがるように前後左右にとりかこんでくる。大は天下のことから、小は嫁姑の事にいたるまですべてこの矛盾にみちている。その矛盾に、即決対処できる人間になるのが、おれの学問の道だ」

と、継之助はいった。即決対処できる人間には自分自身の原則をつくりださねばならない。その原則さえあれば、原則に照らして矛盾の解決ができる。原則をさがすことこそ、おれの学問の道だ、と継之助はいう。それが、まだみつからぬ。

─河井継之助(『峠』より)


生きることは選択であり、選択には常に迷いがつきまとう。一方を選べば、他方は捨てざるを得ない。あるいは、一方を捨てるからこそ他方が生きる。

選択に際して、規準となる原則を身につけることができれば、行動に一貫性を持たせることができるようになるものの、原則を身につけることそのものも行動であり、原則を身につけることと原則に従うこととは切り離すことができない。

行動と原則の関係は、雨上がりの轍(わだち)に似ている。ぬかるんだ道を繰り返し行き来するうちに形成されるわだちは、自分を含めた後続の足を引き付ける。つまりわだちに足を取られやすくなる。

だからこそ、同じ轍(てつ)を踏む。自分が踏むべき轍を踏めるようになることが生きる目的といえるかもしれない。

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