前回の記事で、
本書から私は極めて多くのことを学びました。日記やライフログや「病的なくらい偏執的なタスクシュート」を運用している意義も、再確認できた気がします。それについてはおいおい考察しつつまた報告します。
こう結びましたので、その流れで書いてみたいと思います。
私がTaskChuteを使ってはっきり理解したのは「特定の目標に向かって大半の時間を費やす」などというのは簡単なことではないし、まして「自分の全時間を同一の目標に捧げる」など、非現実的で不可能だということです。
夏目漱石が「私の個人主義」という有名な講演の中で、次のように言っていますが、ここの「国家」を「目的」ないしは「夢」に置き換えても、同じことが当てはまると思うのです。
国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家と云ってあたかも国家に取りつかれたような真似はとうてい我々にできる話でない。
常住坐臥国家の事以外を考えてならないという人はあるかも知れないが、そう間断なく一つ事を考えている人は事実あり得ない。
豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、けっして国家のために売って歩くのではない。
根本的の主意は自分の衣食の料を得るためである。
しかし当人はどうあろうともその結果は社会に必要なものを供するという点において、間接に国家の利益になっているかも知れない。
これと同じ事で、今日の午に私は飯を三杯たべた、晩にはそれを四杯に殖やしたというのも必ずしも国家のために増減したのではない。
正直に云えば胃の具合できめたのである。
しかしこれらも間接のまた間接に云えば天下に影響しないとは限らない、否観方によっては世界の大勢に幾分か関係していないとも限らない。
しかしながら肝心の当人はそんな事を考えて、国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である。
国家主義を奨励するのはいくらしても差支ないが、事実できない事をあたかも国家のためにするごとくに装うのは偽りである。
私達は分人ごとに異なる目標を持っています。就寝につく分人には寝るという目標があり、起床時の分人には起きるという目標があり、両者の目標はまったく逆です。
しかし特定の目標にすばやく達したいと思う人は、これらの分人を統一する、高度な目標を1つ掲げ、「本当の自分はその高度の目標を達しようとするから、気弱な自分が高度な目的を裏切るのを制御するべきである」という発想を持つに至るのです。
私は「分人」というアイデア自体が、そういう「高度の目標に向かう本当の自分」という考えを否定していると考えました。だから分人という考え方に大変共感したのです。
一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) 平野 啓一郎 講談社 2012-09-14
売り上げランキング : 12150
ここのところが、大事なのです。ペルソナだとか役割だとか、そういう発想はすべて「一個の統合された本当の自分」というものが確かにあって、その中にある「様々な側面」といった考え方なのですが、平野さんの「分人」はその逆なのです。
この考えに沿うならば「本当の自分の目標」を決めたり探したりするのは無駄なことです。それは存在しないものの目標ということになるからです。
おそらく「本当の自分」という発想や、ライフハック系でも取りざたされる「本当の自分の目標」(これはまた教育の場でもやたらと安易に取り扱われるものですが)が人気なのは、植え付ける側としては無意識にせよ他人を容易にコントロールしたいという欲求に基づいているのでしょうし、植え付けられる側としては切実なリソース不足にストレスを感じているせいでしょう。
時間も足りなければ、気力も足りない。
たとえばプロのサッカー選手になりたくても、フランス語がペラペラになりたくても、いつもリソースが足りなすぎるのです。
全分人が同一の目標に向かうのでもなければ、自分にはとうてい目標を達成したり、他人との競争に勝てるものではないが、分人ごとのエネルギーと時間を無駄なく活用すれば、もしかすれば自分でも勝負になるかもしれない。
でもこの発想を極限にしたさきには、3杯の飯を4杯にするのも面白い本を書くためだし、顔を洗うのもトイレに行くのも面白い本を書くためだ、という血走ったやり方になってしまいそうです。
でも、二十代で芥川賞を取った「天才」と呼ばれる作家ですら、顔を洗うのもトイレに行くのも「小説を書くため」ではないのです。だから次のようなごくふつうの発想が出るのです。
人間には、一日二十四時間、一年に三百六十五日しか時間がない。そして、どれほど健康な人でも、無尽蔵のエネルギーを抱えているわけではない。財力にも限界がある。それら貴重なものを、どの分人に費やすのか? 自分に対してか、それとも、趣味か、仕事か。
何事につけても「倦まずたゆまずすべての時間を●●に捧げる人だけが」というのが口癖のようになっている人もいます。私はこれを聞くと、他の方法を考えることができない、一種の逃避のようにすら聞こえてきます。
以上を踏まえると、私にはなんといってもまずタスク管理だという結論に達するわけです。時間に限りがあり、体力にも財力にも、当然の限界がある以上「重要な分人」にだとしても、すべてを捧げるなどというわけにはいかないのです。
タスクシュートが教えてくれるところでは、食事やトイレなど「やらないというわけにはいかないこと」のためにも、相当の時間を費やさざるを得ないし、それは毎日続くわけです。
現実を知れば「倦まずたゆまず●●だけにすべての時間を」と言っている人でも、計測すればもっとも大事なことに1時間がせいぜいだとして、何も不思議はありません。
まして「割り込み」が入るのが私達の日常です。だからこそ、もっとも大事なことに手がけるのなら、いつがいいのか。いつごろにやればどのくらいやれるのか。子細に検討しなければなりません。そこに一般解などないわけですから、自分なりに見つけていくほかないのです。タスク管理の他に、記録も必要なのは、こういうところから来るわけです。
しかも、もし分人ネットワークに「中心などない」ということだとしたら、そもそも「分人の構成比率を考えるべき分人」を誰にするべきか、という問題があるわけです。それはまた「いつ考えるべきか」(いつ計画を立てるべきか)ということでもあります。
04-17(金)の17:44の分人が「これからの私は作家として生きるのだ!」と結論したからと言って、その決断が妥当だとは誰も保証してくれません。その分人こそが「他のすべての分人の行動を左右するべきである」という理由も、ありません。なにしろ「一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない」のですから。
「分人」という発想に沿って言うなら、私達はもっと「分人たち」の言い分に耳を貸す必要があるのです。その際、分人の活動中のつぶやきほど信頼できる資料はありません。それはライフログであり、作業ログに他ならないわけです。
中心者としてではなく調整者としての分人は、他の分人たちの活動を調整する上で、ログをレビューするという時間を要するでしょう。最終的に分人の集合としての1人の人間の幸福は「本当の自分の目標達成」などといったものではなく、「大事な分人ごとの、それぞれの目標」を達成していく先にあると考えられるからです。
» タスク管理ツール TaskChute2
Follow @nokiba
久しぶりに続き物として2週間書いてみましたが、このテーマは自分が予想していた以上に、面白い展開をもたらしてくれました。本書を読んで以来、読み直している本がいくつかあります。それらが、まったく違うように読めるのに、自分で驚いています。
タスクシュートと分人。両者はまったく結びつきそうに見えないテーマ同士ですが、日々「たすくま」で記録をつけてはプランを立て直している自分には、日々「自分の中の分人たち」が可視化されているのです。
ぜひそういう経験をしてみたいという方にも、連休中の変な日で恐縮ですが、セミナーなどにご参加いただけるとうれしいです。
5月2日 第2回たすくま超入門(東京都)