そもそも論がいつも気になる倉下です。
以下の記事を読みました。
Instapaperの「読み上げ」インプットからメモを保存してアウトプットするまでの流れ | シゴタノ!
Scrapboxは僕の中では「生け簀」のような位置づけで、ここに“放流”することで、既存の豆論文たちとキーワードを介してつながります。
さまざまな疑問が立ち上がってきますが、一文に要約すれば、「なぜScrapboxが生け簀になり、他のツール(たとえばEvernote)はそうならないのか」となるでしょう。
さっそく考えてみましょう。
生け簀
まず、「生け簀」とはなんでしょうか。
生け簀(いけす)は、漁獲した魚介類を販売や食用に供するまでの間、一時的に飼育するための施設である。いけす、生簀とも表記する。
飲食店では大きい水槽が、海であれば浅い海域に網でぐるっと囲んだ領域が「生け簀」として使われます。そこは、「捉まえた」魚を「生きたまま」「泳がせておく」ために使われます。もちろん、必要になれば、即座に(漁獲のような手間を掛けずに)再捕縛できることも重要です。
情報の活性度について
続いて、情報の活性度について考えましょう。
情報運用工学において、情報の状態は大きく二種類に分かれます。一つは「アクティブ」で、活発に利用される状態のことです。もう一つは「アーカイブ」で、利用頻度が激減した状態がこう呼ばれます。
「アーカイブ」は、総数が大きいほど価値を発揮します。ロングテールの長いしっぽのイメージです。
「アクティブ」は、むしろ総数を限定する(私の言い方をすれば、閉じて動かす)方が価値を発揮します。人間の認知の領域下に置ける情報の数は限られているので、なんでもかんでもを「アクティブ」にしない方がいいのです。
この見方をとれば、「アクティブ」=「生きた情報」であり、「アーカイブ」=「死んだ情報」のように思えますが、あくまで「生死」のメタファーにこだわるならば、アーカイブはむしろ「仮死状態の情報」と呼んだ方がよいでしょう。死んではいないが、活発に動き回ってもいない状態、ということです。
お魚ちらちら状態
『ワープロ作文技術』は知的生産系新書の中でも名著に数え上げられますが、その中に「お魚ちらちら状態」という表現が出てきます。
簡単に言えば、無意識のメタファーとしての地底湖があり、そこに浮かんでくる魚たちという着想がある、その着想をうまく捉まえることが、アイデアマネジメントにおいて肝要である、というお話です。
湖面に集まった魚たちも、そのまま放置しておけば、やがて湖の奥へと変えっていってしまいます。だから、捉まえておくことが肝要です。
とは言え、あまりに湖面がざわつくと、魚たちは驚いて逃げてしまうでしょう。ゆっくりと慎重に、慌てずに捉まえることが大切です。
生きた魚
さて、材料が整いました。
まず、私たちが着想を扱うためには、それを「捉える」必要があります。意識の上にのぼってきたインスピレーションを、逃さないように捕獲するのです。
しかし、釣った魚をそのままずっと抱えているわけにはいきません。人間の認知の領域下に置ける情報の数は限られているからです。
そのとき、それを「アーカイブ」に入れれば、その情報は仮死状態になります。少なくとも、私たちの意識(注意)を煩わされる心配はなくなります。しかし、その魚は泳ぎません。半分(というかそれ以上の割合で)死んでいるからです。
- 生きた魚は泳ぐ。死んだ魚は泳がない。
- 生きた魚は交流する。死んだ魚は交流しない。
情報が「泳ぐ」とはどういうことでしょうか。それ自身で活動している、ということです。自律している。何から自律しているのかと言えば、「私の注意・認識」からです。
ここで以下の二つの記事が効いてきます。
ScrapboxとRoam Researchでは主役が異なる | シゴタノ!
Scrapboxでは、情報が主役であるので、「私の注意・認識」で支配する必要がありません。情報が自律的になる──それはつまりオブジェクト的になるということ──のです。
また、Scrapboxでは、階層構造下に情報を配置しなくてもいい(そもそもできない)ので、何か新しい情報を入れようとしたときに、「既存の構造のどこに位置するのか」を考えなくても済みます。
それはつまり、ある情報を「整理のための形式」に押し込めなくてもよいことを意味します。そこにある情報を、「整理の形式ではこうなっているから、そのように合わせよう」という変形を施さなくてもよいのです。
「整理のための形式」に押し込めるのは、極端なイメージを持ち出せば、ブロイラーの「部屋」に入れるようなものです。ぎゅうぎゅうで狭苦しく、身動き一つ取れない。そんな状態に情報を無理やり変更する必要がありません。
情報の、その姿で保存しておけるのです。
さいごに
Scrapboxに情報を保存すると、使用者のそのときの認知の枠組みに「捕らわれていない」状態で情報を留めておけます。
ある時点の自分の認知の枠組みに配置する、言い換えれれば「整理したい」という気持ちと距離を置いて、情報を置いておけるのです。情報が、それを捉まえたときのままに、そこにある。そういっていいでしょう。
しかし、単にScrapboxに保存したらそうなるわけではありません。
簡単な例を挙げれば、その情報を保存したときの自分にしか読解できないのであれば、それはその時点の自分の枠組みに捉えられた状態ということになります。これは「自律」していません。泳げないのです。
つまり、最初に着想が意識下に捉えられ、それを意識の外に出す際に、異なる意識であってもその着想が自律できる状態で保存されるとき、その情報は「泳ぎうる」のです。
でもって、それが「文章での説明」、つまり豆論文化です。
この工程が欠落していると、それは「生け簀」ではなく、「アーカイブ」行きと同等になってしまいます。Evernoteに保存した情報の大半が死蔵してしまっているのも、それが大きな理由の一つです。
「生け簀」とは、アクティブでもありアーカイブでもある存在です。あるいはアクティブでもアーカイブでもない存在です(準アクティブ・アーカイブとでも呼べるかもしれません)。
そこにある情報たちはその時点の私の注意からは外れていますが、しかし、注意の外であってもそれらの情報は自律しています。
仮死状態ではなく「生きて」いるのです。
もちろん、これ以外にもScrapboxだからこそ情報を活かせる理由はあるのですが、まずは以上の点が重要でしょう。
単に保存すればいいわけではなく、着想を捉え、それを自律できるように書き留めておく。その上で、情報を整理の枠組みに押し込めない──この点を守っておくことは必要です。
もう一つ、「生きた魚は交流する。死んだ魚は交流しない」についても書きたかったのですが、それについてはまた回を改めて書くことにしましょう。
ちなみに、この記事を書くために自分の「生け簀」にたもを投げたら、以下のような記事が引っかかりました。
一年前に、もう似たようなことを考えていて(書いたことは忘れていました)、今このタイミングでそれがまな板の上に乗っています。
そういうことが可能なのがScrapboxです。
▼参考文献:
Scrapboxは、難しい操作やややこしい概念を覚えなくても使えますが、ある種のメンタルモデルをくるっと変える必要があります。操作も含めて、それを解説しているのが本書(拙著)です。
▼今週の一冊:
2020年になって、梅棹忠夫さんの新刊が拝めるとは思いませんでした。著作集を持っていないので、個人的には非常に嬉しい文庫化です。「逃げ恥」などで、シャドウワークに従事する女性についての再検討が要請されていますが、梅棹さんははるか昔に「妻であることをやめよ」と大胆に提唱されています。社会の情報化が進めば、「モノづくり」とは違って、肉体労働における性差の影響が小さくなるわけですから、女性の社会進出が容易になることは予想できます。まあ、現代の日本がどうなっているのかは、ちょっとわかりませんが。
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本文中にしれっと出てきた「情報運用工学」は、私の造語です。「情報工学」ではなく「運用」の二文字を入れたのは、情報の客観的な性質ではなく、「それを使う」という視点での情報の扱い方を検討したいからです。情運と略してもらっても構いません。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。