野口悠紀雄さんの『「超」文章法』にこんな比較があります。
パソコン以前の文章執筆は、「創造」であった。何も書いていない真っ白な原稿用紙を前にし、そこに一文字ずつ字を埋め込んで、文章を作り上げてゆく。
では、パソコン以降の文章執筆はどうなのでしょうか。
ところが、パソコン時代の文章執筆は、「修正」になった。ごく簡単なメモでよいから、最初に何らかの手がかりをつくる。あとは、足りない部分の追加、不適切な表現の改良、削除、順序の入れ換えなどを行なってゆくだけだ。このような作業だけで文章ができあがっていく。
たしかに原稿用紙に手書きする場合では、後からの修正が大変なので、先に書くことやその流れを考えてから筆を執ることになります。つまり、執筆時に生み出されるラインが、即、完成時のラインに対応してしまうのです。この点を指して「創造」だと呼ばれているのでしょう。
一方、パソコンでは話が変わります。修正作業は簡単に行えるので、最初のうちから整った流れを組み立てる必要はありません。書いて、修正している間に、徐々に組み上げていけばいいのです。
修正の連続が、完成への道のりになる。そういう特徴を、パソコン・ライティング(もっと言えば、デジタル・ツール・ライティング)は持っています。
そしてこの二つの対比にある変化を、さらに進めるのがScrapboxです。
差異の要素
まず、二つの対比のポイントを探ってみましょう。一番重要なポイントは、「修正が楽」という点です。
たとえば、原稿用紙からタイプライターへの変更は、書き手に圧倒的な「楽さ」をもたらしたでしょう。綺麗な文字が素早く記述できるのですから、大助かりです。しかし、そこにある楽さは「文字書きの楽さ」でしかありません。リニアに打ち込んでいくしかないタイプライターでは、あいかわらず修正作業は困難です。
では、タイプライターとワープロ(ワードプロセッサ)はどうでしょうか。二つとも文字を打ち込んでいく作業はかわりませんが、ワープロでは自由自在に編集できます。野口さんが書かれたように、修正・追加・入れ換えといったことが容易に行えます。そして、それを前提として文章を書き進められるようになります。
つまり、「修正が楽」という特性は、「文章の書き方」そのものを変えてしまう可能性を秘めているわけです(※)。そして、その変化は、より門戸を開く結果を呼び寄せます。なにせ、頭の中で全体像を組み上げられるような「頭の良さ」を持っていなくてもよいのです。少し書き、それを修正する手間をかけられるならば、文章を組み上げられます。
※この辺のお話は『思考のエンジン』という本でも展開されているので、ご興味あればそちらもどうぞ。
現代ではたくさんの人がインターネットを経由して文章を公開していますが、もし文章を書くためのツールがタイプライターしかないならば、いくらインターネットがあったとしても(そんな状況はまずあり得ないわけですが)、これほどまでの数にはならなかったでしょう。
「修正が楽」という特性は、文章を書き、それを発表する人の裾野をかなり広げてくれています。この世界における情報交流の輪を拡大させているのです。
前提となる目標
このような変化を踏まえ、「楽に書き直せる」ことを念頭に置いた文章執筆術を紹介しているのが『ワープロ作文技術』です。タイトルこそ時代性を感じさせますが、現代においても「いかに大きな文章を組み上げていけばいいのか」について有益な示唆を与えてくれる本です。
しかし、逆にいうと、この本が視野に入れるのは「ドキュメント」の完成です。論文であったり、書籍であったりとメディアはさまざまでしょうが、一つの大きな構造を持つ文章の完成が前提に鎮座しています。
たとえば、こんな記述があります。
(前略)第1章の要領でメモを溜めてゆくのはとてもよいことだが、メモばかり溜まってもそのままでは文章にならない。文章にならなければ他の人には見せられない。有効な批評が受けられない。書きおろしは、作業としてはメモ書きよりずっとしんどいから、ついずるずるとあと回しにしたくなる傾向がある。なるべく早目に、一部でもいいから手をつけることが大切である。
頷ける点はおおいにあります。しかし、現代の情報環境において少し考えたいのは「文章にならなければ他の人には見せられない」という点です。それは本当なのでしょうか。
たしかに「コスプレ ミク ユーチューブ」(私のメモ帳にあった項目です)という走り書きでは、他の人に見せることはできないでしょうし、できたとしてもそこで有益な情報交換が発生するとも思えません。でも、それを少し整えた文章ならどうでしょうか。それならば、他の人に見せられるものになるのではないでしょうか。そして、そこから有効な批評が受けられるようなこともあるのではないでしょうか。
出版メディアが限定されていた時代では、「論文」や「書籍の原稿」など、大きな構造を持つ文章しかこの世に投げることはできませんでした。しかし、現代は違います。現代は、細切れの破片でも、簡単に流通させることができます。
だとしたら、大きな構造にこだわる必要はないのかもしれません。走り書きのようなメモを少しだけ読めるように整える。そして、それを「後から修正」していく。そういうやり方も開かれているのではないでしょうか。
さいごに
これは別に、大きな構造を持つ文章が不要になった、という話ではありません。大きな構造だからこそ伝えられるものはあり、そこには独自の価値があります。
しかし、そうした構造を作り出すためには、やはり大きな労力が必要な点は否めません。どれだけワープロが楽チンでも、アウトライナーが便利でも、大きな構造の構築には手間がかかり、努力が必要です。そこが、情報発信の足かせになっている可能性はないでしょうか。
修正が楽なワープロ的装置が情報発信の裾野を広げたように、大きな構造を必要としない装置もまた、情報発信の裾野を広げてくれるかもしれません。言い換えれば、「大きな文章を編む力」がない人でも、自分の知見を他人と共有できるようになる、ということです。
すでに10年選手がめずらしくない「ブログ」という装置は、機能としては可能であっても、認識として「不完全な断片」を提出できる場所ではなくなりつつあります。コンテキストが育ちすぎてしまっているのです。
Scrapboxという新しいツールは、そのコンテキストを、いったんリセットしてくれるかもしれません。そんな風に期待しています。
▼参考文献:
文章内容の装飾にまつわる話も便利ですが、「書き出すこと」の有用性を説くライティング・プロセス・パターンに関する後半の話も有用です。
少し思想的難しさはありますが、ツールと「書くこと」についてめちゃくちゃ考えたくなる本です。
このシゴタノ!でも幾度も登場していますが、「ワープロ」という名前に目をつぶって購入されるときっと面白い内容に出会えると思います。
上記のようなことを切々と論じたわけではありませんが、そういう期待感を持ってScrapboxが広まればいいな、と考えています。
▼今週の一冊:
最近読んだ本の中で一番面白かったかもしれません。行動経済学的な内容に思えるタイトルですが(実際その要素はありますが)、私たちにとって知識の拠り所となるのはなんなのかを考える一冊です。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。