昨年末、2016年12月30日から毎朝起床時に体温を測る(検温)習慣を始めました。まだ10日ほどですが、興味深い発見がありました。検温を忘れずに続けるために実践していることと合わせてご紹介します。
きっかけは、年末の入院でした。
背中にできた瘤を除去する手術のためで、入院は人生で二度目。
今回の手術は初めての全身麻酔で、手術室に入ってからしばらくして記憶がプツンと途切れ、次に気づいたときには手術が終わっていました。
ぼんやりとした視界の中に、執刀してくださった主治医の顔が現れ「終わりましたよ~」と話しかけられますが、声がうまく出せないため何とかうなずき、そのまま病室に運ばれます。
睡眠以外で意識を失う経験は皆無だったので(酔いつぶれて記憶をなくすという経験もなし)、個人的には鮮烈な体験となりました。
それはさておき、わずか2泊3日とはいえ、改めて入院生活のルーチンっぷりに感銘を受けました。
検温、採血、回診といったルーチンがほぼ決まった時刻に粛々と行われるのです。
きっと様々なチェックリストやレシピ、あるいは個別の申し送りメモなどが看護師チーム内で共有され、運用されているのだろうな、と想像するだけで少し興奮してきます。
そんな中で、なぜ今までやってこなかったんだろう、と思ったのが検温。
自分の健康状態を知り、異変を早期発見する上で、睡眠時間や体重に加えて、体温もまた継続的に測定し、記録に残しておく価値のあるものだと感じたので、退院後にさっそく検温習慣をスタートしました。
せっかくなので体温計を新調
体温計はすでに持っていましたが、家族と共有のものが1つあるだけなので、自分専用に1つ新調することにしました。
購入したのは、オムロンの「電子体温計けんおんくん」。
先端がぐにゃっと曲がったりして面白いのですが、
それ以上に驚かされたのが検温時間。なんとわずか15秒前後で測定終了です。
脇に挟んで、ぼーっとする間もなく「ピピピッ」という電子音で測定終了を知らせてきます。
「独自の分析・演算技術で高速演算処理し、約15秒で約10分後の体温を予測」するそうです。選挙の開票速報みたいな感じですね。
さらに、過去10回分の検温結果を日時とともに閲覧できるのも良いです。画面もバックライトつきで見やすいですし。
▼「<」を押すと過去の検温結果が表示されます。
たすくまで毎朝のルーチンに組み込む
朝起きてからの一連のルーチンがたすくまにすでに登録済みですので、この一覧を眺めて検温をするのに最適なタイミングを探して、組み込みます(一覧の中ほどにある「今朝の気分」についてはこちらでご紹介しています)。
よほどのことがない限り間違いなく毎回36度台のはずですので、数日後にリピートタスク名に「36.」まで入れるようにしました。
これで、記録時は小数点第1位だけを入力すれば済みます。
まぁ、一番良いのは「Withings スマート体重計」のようにWi-Fi経由で自動的に記録が残ることなのですが…。
たすくまからEvernoteに個別に送信して、以下のように一覧で見られるようにしています。
興味深い発見
まだ10日しか測っていないのでなんとも言えませんが、興味深い発見がありました。
通常は36.3~36.5度の範囲内なのですが、ときどき36.6~36.7度になることがあり気になっていました。まぁわずかな違いではあるのですが、何か原因があるのかなと不思議に思って記録を遡ってみました。
すると、思い当たるふしが。
前夜にお酒を飲んだ翌朝は、例外なく36.6~36.7度になっていたのです。
だからどうということはないのですが、人間の身体というのは実に精緻に機能しているものだと改めて感心させられます。
記録を続けることで見えてくることが他にもあると思いますので、今後も観測を続けていくつもりです。
良かったらぜひご一緒に。
関連:
記録を続けることで得られるあれこれについてはいろいろ記事を書いていますので、ぜひご一読ください。
» 時間の記録を毎日続けていると「小さな穴」を塞ぐことができる
見方を変えると、記録を通して「穴」を見つけ出し、これを塞いでいく、という活動になります。
記録が濃くなるということは、その活動に対して少なからず思い入れがあるわけですから、それが自分にとって「得意」なものである可能性が高いといえます。
少なくとも「自分にとっての“労力の割に周りが認めてくれること”っていったい何だろう?」と漠然と考えるよりも、少ない手数で“答え”に近づくことができるでしょう。
記録が濃くなるということは、それだけ他の活動をさしおいて、その活動に優先して時間とエネルギーを投下しているはずだからです。
» 記録を「判断の歴史」としてとらえると、その有用性が増し、習慣化を後押ししてくれる
結論から言うと、残した記録が何らかの形で「これは役に立つ!」と実感できるようにすることです。
そのように実感できるときというのは、記録が「判断の歴史」になっているときでしょう。
それを辿っていけば、「どうしてこうなった?」に答えられるようになる状態です。