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情報のフィックスと「自分の家」



前回の続きです。

倉下忠憲「勝手知ったる他人の家」という表現があります。とても面白い表現です。

二つの前提が見えてくるからです。

  • 「自分の家の勝手は知っているものである」
  • 「他人の家の勝手を知ると自分の家であるかのように振る舞える」

難しい話ではありません。初めてお邪魔したお宅は、トイレの場所すらわからず、お湯を沸かして緑茶を入れることは非常な困難を伴うでしょう。

一方で、自分の家ではそうした動作で苦戦はしません。何も考えることなく引き出しを開け、湯飲みと茶葉を準備し、電動ケトルでお湯を沸かし始められます。そのようなスムーズな動作は、たとえるならばパソコンがHDDにアクセスすることなくメモリだけで行為を達成しているようなものです。あるいは、ブラウザがキャッシュで情報を表示しているのも近しいかもしれません。なんにせよ、「余計な処理が働いていない」のです。

その「余計な処理が働いていない」感覚のスムーズさは、情報を知的加工する場合にも効いてきます。ただ、その話に入る前に、二点だけ確認しておきましょう。

  • すべての家を「自分の家」にするのは現実的な欲望とは言えない
  • 自宅だからといって「自分の家」になるわけではない

まず前者から。

たしかに「自分の家」は快適なので、その場所が広いほうが好ましく感じられますが、「もっと、もっと」という欲求をそのままぶつけていくと、たいへんなコストがかかります。

また、ある程度の広さになると、人間の生物的な情報処理能力限界を超えてしまいます。パソコンのメモリでも、「4GBまで増設可能」のような上限があるのですから、すべてを「自分の家」にするのは諦めた方が良いでしょう。

次に後者ですが、たとえば自宅のキッチンであっても、あたかも「他人の家」であるかのように勝手がわからない人だっていいます。めったに台所に立たない配偶者を思い浮かべてもらえばよいでしょう。単に自宅であることと、「自分の家」であることには違いがあるわけです。

よって、自宅をどんどん巨大化したからといって、それがそのまま「自分の家」を拡張することにはなりません。むしろ、そのような無鉄砲な拡張は、その場所の「自分の家」性を損なってしまうことすら起こり得ます。

という点を確認しておいて、別の例を考えてみましょう。

ひらくPCバッグとリュックサック

素晴らしいプロダクトの行き届いた工夫にはいつも感心させられますが、たとえば「ひらくPCバッグ」はそうした製品の一つです。

“「ペン立て」みたいなバッグ”を謳う本製品は、極めて使い勝手がよく、リュックサックのように中身がごちゃごちゃすることがありません。

では、なぜリュックサックは中身がごちゃごちゃするのでしょうか。

もちろん固定されていないからです。それぞれの物の「場所」がフィックスされていないのです。だから、リュックを開くたびに目的のものがどこにあるのかを探さなければいけません。

逆に、リュック内部に小さなポケットがあるとき、そのポケットだけはいつも同じ場所にあることになり、その場所へのアクセスは極めて容易です。だから、ペンやメモ帳などをそのポケットに差し込んでいる人は多いでしょう。

これが、フィックスとフローの違いです。

「ひらくPCバッグ」では、物をフロー(ないしはスピン)させることなく、フィックスしておけるのです。だからカバンを開いたときに、どこに何があるのかがすぐにわかります。その「わかる」は、意識を経由する理解ではなくて、自宅でお茶を入れるのと同じように「余計な処理が働いていない」感覚なのです。

つまり、ひらくPCバッグは持ち物を「自分の家」に配置することができ、通常のリュックサックはいつまで経っても他人の家のままです。もちろん、それによってクリティカルな困難が生じることはありません。

場所が変わっているとは言え、その中には必ずあるのですし、時間をかけてがさがさとすれば目的のものは見つけられます。図書館のようなサイズのリュックサックを背負うことはまずないわけで、カバンにおいてそんなことを気にかけるのは「過剰」ではあるでしょう。

しかし、情報は違います。特にデジタル情報は違います。図書館ですら「小さく」感じてしまうほどの量の情報を、私たちは扱えるようになります。そのときに、「がさがさしなければ目的のものが見つからない」がクリティカルな問題として立ち上がってきます。

検索とがさがさ

デジタルノートでは検索して情報を見つけられます。素晴らしいことです。だから、Pin留めする必要はなく、必要に応じて検索すればいい、と考えるのは巨大なリュックサックを作ることに相当します。

たしかにすべての情報を適切な場所にPin留めしていくのは手間がオーバーフローするでしょうから、巨大リュックサックは一つの現実的なアプローチでしょうが、その内部にポケット的なものを一つも設けないで良いのか、という疑問は残ります。

たとえば、具体的な手順で考えてみると、「何かの情報を必要とする→その言葉で検索する→検索結果から目的のものを探す」というデジタルノートでよくあるアプローチは、複雑ではありませんし時間もさほどかかりませんが、「検索結果から目的のものを探す」という「がさがさ」がどうしても入り込みます。

これと比較すると、「アウトライナーの一番上の項目の下位項目の二番目にある情報」は、いっさい「がさがさ」が起こりません。茶葉を取り出すように情報を取りだせるのです。

検索行為ですら、「検索ボックス」は固定位置にあり、そこに言葉を入れるまでは「ノーがさがさ」でいけるのです。検索結果のボリュームが極めて小さく、一目で目的のものを見つけ出せる場合でも、「がさがさ」は気にならないほどの程度に留まるでしょう(現実のリュックサックと同じです)。

しかし、情報が図書館サイズまで増えてくると、もはや「がさがさ」は手に負えなくなり、そんなことを毎日のように行うことはやりたくなくなります。

しかも、この検索的がさがさは、どれだけ検索を繰り返しても低減することがありません。デジタルノートに情報が追加され、編集され、追加されるたびに、検索結果のソート順は変わり、毎回「勝手知らない他人の家」に上がることになります。

保存している情報のオーダーが上がり、また流入速度が高いとき、私たちは自分のデジタルノートを永遠に「自分の家」にすることができなくなるわけです。

さいごに

すでに何度か書いていますが、このような問題はデジタルノートを使いはじめたばかりの頃には発生しません。そうした頃は、いわば「アナログノート」的な感覚で問題なく使っていけるのです。だから、ここ10年のデジタルノート術ではほとんど言及されてこなかったと思います。

同様に、最近新しく登場したデジタルツールを使いはじめた人も、上記のような問題を「クリティカル」だとは実感されないでしょう。それはまだ、扱える程度にリュックサックのサイズが留まっているからです。

しかし、今便利に感じているデジタルノートは、便利に感じているが故に今後も使い続け、保存する情報も増えていくことでしょう。そうなった後になって、ようやく問題のクリティカル性が実感されることになります。

そうしたときに「デジタルノートなんて役に立たない」と投げやりになるのではなく、「自分の家」感覚の欠如に問題を見て欲しいので、本連載を書いています。

デジタルノートツールとの付き合いは長くなるからこそ(それこそライフに寄りそうツールになるでしょう)、自分との関係性は軽んじて考えないようにしたいものです。

デジタルノートテイキング連載一覧

▼編集後記:
倉下忠憲



進行中の書籍原稿は第六章まできました。あと「かーそる」第四号の編集作業もスタートしました。新しいScrapboxプロジェクトUnnamed Campも開設しました。冷静に考えると、やりすぎというか「前進中毒」ですね。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中