野口悠紀雄さんの『AI時代の「超」発想法』にこんな記述があります。
第1章で述べたように、優れた創造活動では、組み合わせのすべてを機械的に点検するのではなく、無意味なものを最初から排除します。そこで引用したポアンカレが言うように、可能な組み合わせの総数は限りなく、しかも、その大多数は無意味なものです。「発見が選択である」というのは、多数の見本を出されて、1つひとつ検査して選び出すことではなく、無益な組み合わせを除外したり、「かかる組み合わせをつくるが如き労を費やさない」ことなのです。
このように書いた上で、野口さんはKJ法を批判されます。
KJ法は、こうした直観力を排し、可能な組み合わせを機械的に点検しようとします。
私はこれを読んで「?」と思いました。KJ法って、そんな方法でしたっけ?
原典チェック
川喜田二郎さんの『発想法』では、どう書かれているでしょうか。
まず複数人でブレインストーミングを行い、そこで出た意見・確認された事実を「書記」がカードにしていきます。その際に、いかに的確にカード化するか(≒見出しを作るか)がポイントであると述べられます。
そうしてカードを作り終えたら、150枚から200枚程度のカードを全体的に並べ、その後に「整理作業」が始まります。
そして拡げ終わると、その紙片を、あわてず騒がず、端からでも真ん中からでも読んでいく。読むというよりも眺めてゆけばよいのである。三時間の討論では、二、三百枚になることもあるから、せっかちな人はまるでノイローゼになりそうな気持ちにもなろう。けれども、あわてる必要はまったくない。どこからでもよいから、それを流し目でみていればよい。
全体に拡げ終わった紙片(≒カード)を、ゆっくりと眺めていきます。あわてず騒がず、「流し目」で眺めていくのです。そうすると、次のようなことが起こります。
やがて紙切れ同士のあいだで、その内容の上でお互いに親近感を覚える紙きれ同士が目についてくるだろう。「この紙切れとあの紙切れの内容は同じだ」とか、「非常に近いな」と感ずるもの同士が目にとまる。そう気がつけば、その紙切れ同士をどちらかの一カ所に集めるのである。
全体を眺めていくうちに、「そういえば、これってさっき目にしたあのカードと近いな」と感じることが出てきます。それを感じたら一緒のグループにしてしまう。それを繰り返すことで、紙片の小さなグループがあちらこちらにできていきます。そういう手順を再帰的に適用することで、KJ法は進行します。
はたしてこれは「組み合わせのすべてを機械的に点検」しているのでしょうか。
私にはそうは思えません。
そこに働く力
たとえば、私もKJ法の真似事をよくやりますが、その際も別段「機械的に点検」するようなことはしません。つまり、100枚のカードがあったとしても、No.1のカードとNo.2のカードを組み合わせてみて、次にNo.1とNo.3と、その次にNo.4とといった総当たり戦は実施されないのです。
そうではなく、全体を眺めていくうちに頭に思い浮かんでくる、「これって、あれと近いな」という感覚に応じて小さなグループを作っていくのです。
このとき働いている「感覚」とは何でしょうか。論理ではないでしょう。なぜなら、なぜその二つのカードを近しいと感じたのかをその時点では(自分でも)説明できないことが多々あるからです。
だとすれば、それは「直感」に属することでしょう。川喜田氏も「親近感」という言葉を使っていますが、これも論理に属するものではありません。論理よりも先に立つ感覚。名付けるとしたらやはりそれは直感になるのではないでしょうか。
カードが促す
だからこそ、まったく同じカード群を使っても、それを再編する人によって最終的なアウトプットの形は変わってきます。用いられるデータが同じでも、「切り口」が変わってくるのです。それは人が持つ直感の在り様がひとそれぞれだからです。言い換えれば、何に「親近感」を感じるのかは、その人の経験に依存するのです。
KJ法の標語の一つに「データをして語らしめる」がありますが、それは主観性がまったく排除されていることを意味してはいません。むしろ「語り」を整える作業の中に抜きがたく主観性は混ざり込んでいます。
その証拠に、上で『発想法』(旧版)から引用した文章は、「発想をうながす」という章に修められています。つまり、カードが「発想」しているわけではないのです。あくまでカードは発想(あるいは直感の働き)をうながすものであり、発想しているのは自分自身の頭というわけです。
この作業を「機械的」と表現するのはさすがにいきすぎでしょう。
さいごに
ここまでの話を逆に捉えましょう。
もしKJ法を、「組み合わせのすべてを機械的に点検する」ものだと捉えれば、ひどく退屈な作業に思えるでしょうし、また能率も上がらないでしょう。なぜならば、そのような点検作業では「近しいものはどれだろうか?」と感じる直感が抑圧されてしまうからです。
そのような作業は、前回にも書いたように「マニュアル的発想法」と言えるかもしれませんし、その点への批判は私も同意するところです。
しかし、KJ法の実践は「機械的に点検」するものではありません。そもそも、ブレストを行って、カードを作る行為(≒見出し作り)ですら、「書記」を担当する人のスキルにかなり影響を受けてしまいます。機械的なんかではぜんぜんありません。
結局、『AI時代の「超」発想法』に指摘もあるように、二つでやることは同じなのです。頭がよく働く人はすべてを脳内でやってしまえるし、そうでなければカードの補助を借りることになる。そして、頭が良い人の割合を考えれば、「技術」というのは後者のような在り方を肯定してこそだと感じます。
▼参考文献:
「発想」はいかにして行うのか。既存の発想法への批判を踏まえた上で、基本原則が解説されます。
基本的には「KJ法」の解説ですが、「考える」という行為をどのように進めていったらいいのかについて示唆の多い本です。
▼今週の一冊:
一日に数ページというかなりゆっくりした速度で読んでいます。ひさびさに手書きでノートに引用を書き写しながらの遅読書です。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。