今回は086から088まで。思考法・発想法に関する新書三冊です。
- 『発想の論理』(1970)
- 『発想の整理学』(2020)
- 『問う方法・考える方法』(2021)
『発想の論理』
中公新書の230番なので現在はなかなか入手が難しいのですが、複数の技法を対比して論じる書籍は少ないので挙げさせていただきました。著者の中山氏はNM法の提唱者としても有名です。
本書では、まず発想とは何なのかを確認した上で、その発想プロセスをいかに進めていけばいいのか、それを補助するための技法はいかにあるべきかが検討されます。
ではその発想プロセスはどのようなものかと言えば、次の四つの観点から説明されます。一つ目は「問題意識」です。注意を向けること。これがなければどんな知的生産も始まらないことを考えればごくまっとうな観点です。二つ目は「情報収集」で、集める情報は以下の四つに整理されています。
- 意志的にあつめた、一連の論理的つながりをもった情報
- 意志的にあつめた、個々バラバらな情報
- 向こうから、かってに飛び込んできた情報
- 明らかには意識されていない情報
前者二項目が「知識」と言え、残り二項目は知識にならないわけではないが日常茶飯事なことだと説明されます。私たちが「情報摂取」として意識するのは前者のような情報に対してでしょう。と言え、それ以外が不要というわけではありません。むしろ性質の違いを踏まえた上で、全体的な情報収集をすることが肝要となります。
その点と関連するのが、観点の三つ目である情報の切断です。「意志的にあつめた、一連の論理的つながりをもった情報」は質はよいもののそれ自体は閉鎖的です。一本の線のようにまっすぐに連なっていて新しい組み合わせが生まれることがありません。そこで情報をバラバラに切断する必要が出てきます。そのための手法がいわゆる「カード化」です。
面白いのは、このカード化をしなくても、私たちは「忘却」という脳の作用によって情報を切断している点です。本全体の論旨は思い出せなくても、そこに出てきたエピソードやたとえ話は思い出せる、ということはないでしょうか。これはまさに断片化でありカード化です。
このような脳の作用があるからこそ私たちは「知的生産」という創造的な行為が可能なのです。その視点で言えば、カード化はそうした脳の作用を意識的・意志的に進めるものだと言えるでしょう。もし「第二の脳」と呼べるものを考えるならば、こうした脳の作用に注意を向けなければなりません。そうしないと「ただ情報が置いてあるだけの箱」になってしまうでしょう。
最後、四つ目の観点が情報の組み合わせです。断片化・カード化された情報を、新しい全体性のもとで組み上げること。私たちが「発想」という言葉で注目するのはこの工程ですが、実際は一つ目から三つ目の工程を無視して話を進めるわけにはいきません。発想法のノウハウが役立つかどうかはこうした全体を視野に入れているかどうかに左右されるわけです。
上記のような整理を経て、各種発想技法はどのような意味合いを持ち、どういうプロセスを補助してくれるのかが解説されます。本書を読めば「どれが一番すぐれた発想技法なのか」という局所的な思考ではなく、「この発想技法はどういう役立ち方をするのか?」という位置づけ的思考に近づけるはずです。
『発想の整理学』
本書は2020年出版であり、ぐぐっと現代的になります。副題の「AIに負けない思考法」にもあるようにAI的なテクノロジーが一般化した社会における「考える」という知的な営みを再考する一冊です。
そのアプローチにおいて、あのKJ法がフォーカスされている点が特徴でしょう。1960年代に提唱された発想技法が現代まで継承されているのはそれ自体が注目に値します。一時的なブームになり、結果としてその思想を理解しない「なんちゃってKJ法」が流行してしまったわけですが、それでもそこで断絶したのではなく、その志を受け継ぎながら、実践に活用されている人たちがいるというお話は、メタ的な視点からみた「知的生産の技術」としても興味深いものです。
ともあれ、川喜田二郎の『発想法』はどうしても学問的・学術的なスタンスが取られていたので、川喜田氏の本がとっつきにくかった人は本書でKJ法の実践とその思想に触れてみるのがよいでしょう。
『問う方法・考える方法』
本書は「探求型学習」に向けた一冊です。探求とはなんであり、これまでの「勉強」とはどう違うのかが解説されます。さらになぜ今探求が求められていて、どうすればそれを進めていけるのかも合わせて説明されます。
上でも書きましたが、「発想法」は情報の組み合わせを変えれば達成できるわけではありません。まず問題への注意(問題意識の確立)があり、そこからさまざまな情報を集めることが求められます。この工程を別の言葉で表せば「探求」となるでしょう。発想と探求は切っても切れない関係にあります。というか、探求を続けていると付随的に発想が生まれてくると言い換えた方がいいかもしれません。知的生産・発想・探求は、それぞれがつながっているのです。
よって高等学校の学習指導要領の「総合的な学習の時間」が「総合的な探求の時間」に変更されたことは、「知的生産できる人」をより増やす結果につながあるはずです(期待通りの効果があがるなら、ですが)。
付言すれば、本書ではいわゆる発想技法ではなく、むしろ問いそのものを深めていくための「対話」(哲学対話)が紹介されています。そうした対話は、ひとりで行う発想技法を補完したり、グループで行うKJ法をよりディープに進めるための補佐したりしてくれるでしょう。
なんにせよ「発想」は瞬間的な行いではありません。体感的にはそれは瞬間的に起こるように感じられますが、実際はそのバックグラウンドでさまざまなものがうごめいており、その結果として出てくる一つの着想に過ぎない、ということを知っておくと知的生活全般が変わってくるはずです。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。