今回は063を。ノート術では最後の一冊です。
『すべてはノートからはじまる』
拙著です。拙著なのですが、本書はノート術の系譜において(ガンダムで言うところの)ターンA的位置づけなのでここで紹介させていただきます。
本書は片方では難しい話をしていますが、もう片方ではしごくシンプルな話をしています。「ノート術とか、そういう細かい話はまあいいから、ともかくノートを書こう」という話です。
たしかに、細かいノウハウは役には立ちます。しかし、それはすべて「ノートを書き続けている」という土台の上に乗っかる話です。ノウハウを読み漁りながらも、自分では一切ノートを書いていないなら、それらを役立てるのは難しいでしょう。
ともかくノートを使う。
そこから話は始まります。
脳+ノート
では、「ともかくノートを使う」とは、どのような意味なのでしょうか。いくつか例を挙げれば、次のようなものです。
- 考え事をするときにノートを使う
- 中期的な仕事をするときにノートを使う
- 思いついたことを書き留めていく
- 気になったことを書き留めていく
とりたてて難しいことではありません。さまざまな書籍で説かれていることでもあります。別段それで構いません。トリッキーである必要はどこにもなく、むしろ「毎日続けられるほど簡単なこと」であることが要件とすら言えます。
大切なことは、これらを個別の事柄として捉えるのではなく、一つの統合的な活動として位置づけることです。やっていることは、すべて同じなのです。少なくとも、広い意味ではそう言えます。
脳+ノートで、物事を進めていくこと。
言い換えれば、「自分の脳だけで物事を進めることを避けること」。指針としてはたったこれだけです。しかし、この指針が大きな違いを生みます。徒歩で歩くのと、馬車を使うくらいの(あるいは自転車を使うくらいの)違いが生まれるのです。
ノートの効能
その「違い」は、単純な生産性だけではありません。つまり、「物事を忘れなくなって、達成できる事柄が増える」というメリットだけではないのです。
頭だけで「考える」作業をしないことは、確実に脳内の負荷を下げてくれます。同じことを延々と考え続けるようなループを避けられますし、自分が考えたこと・やったことの記録(足跡)が残れば、ある種の達成感も得られます。精神的なプラスに寄与してくれるのです。
それだけではありません。「自分なりにノートを書く」という作業は、極論すれば「創造的」な作業です。何かを「つくる」行為なのです。そうしたクリエイティビティの発露は、深い満足感を与えてくれます。人によっては、他の人のやり方をまるっきり真似することで安心感を得ることもあるかもしれませんが、むしろそういう状態ではストレスが溜まるばかり、という人も多いでしょう。
「自分なりにノートを書く」というのは、ミニマムな芸術であり、表現であり、プログラミングであるのです。
そうした行為を日常に取り込んでいけるならば、そこからの人生の歩みは違った風景が待っていることでしょう。
「自分のノート」からはじめる
「ノート」というテクノロジーがさまざまに発展してきたのと同様に、ノート術も千変万化です。固有で絶対的な「答え」がはじめから存在しているわけではありません。
そうしたノウハウの探求はたしかに価値ある行為ですが、それでも「しょせん、ノート術でしかない」と言い切る胆力もまた必要でしょう。それよりも、まず「ノートを書く」ことをやってしまう。それが愚直でも、非効率でも、不完全でも、構わない。むしろ、そうした「まっとう」でない書き方の中から、はじめて「自分なりのニーズ」が立ち上がり、それに対処できるノウハウが模索可能になる。そんなことも言えるかもしれません。
人類の文明や文化の発達を支えたテクノロジーは、全般に「ノート性」を持っています。概念としての「ノート」は普遍的なのです。人類は、間違いなく「記録」を使って発展してきました。しかし、昨今では記録の持つ力が強すぎて、個人のそれが十分に追いついていない状態も感じます。だからこそ、今一度「ノート」との関係性を再構築する必要があるのではないでしょうか。
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自分の本を紹介するのは、いつも奇妙な気分になります。ちょっと傲慢ではないかな、という気もします。でもまあ、読んでもらいたいと自信を持って言える本なので、今回はめげずに紹介させていただきました。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。