私は
良い関係のなかで、本当は……したいのだけれど
悪い関係が生じて、……になるのが不安で
それを避けるために、防衛して……する
今ではなかなか読まれることがなくなってしまった本だと思います。
ですが私は、こんなに「仕事の役に立つ」本もめったにないだろうと思うのです。
上のような心理におおわれて、まったく意味のないことをかなりの苦労をかけながら「実行している」人がたくさんいるのではないでしょうか。
「先送り」などもまさにこのような心理からの「繰り返し」だろうと思います。
たとえば、
私は
家族との良い関係のなかで、本当はメルマガを書きたいのだけれど
執筆中に割り込まれて悪い関係が生じるのが不安で
それを避けるために、防衛してカフェに籠もって書く
というような人はたくさんいるでしょう。
実際には家で書いていても家族はなにも言わないか、日によってはそもそも「買い物に出かけていもしない」というのに。
さらには、
私は
本当はNetflixを見ていたいのだけれど(動画と良い関係)
そのせいで、仕事を失ったりするのが不安で(仕事との関係悪化)
それを避けるために、Netflixに脱線しながら作業を並行して進める(防衛)
などとなるわけです。
カフェごもりとNetflixはずいぶん違います。それでも両者に共通するのは、
- 本当にやりたいことは、理想的な形では、できないことになっている
不安心理です。
私はこんなふうに一生を終えるのはさすがに耐えがたいことだと思います。
突くべきポイントは「これはきっとそうなる。いや確実にそうなる」とあきらめきった、それでいて妙に確信に満ちた「推定」です。
- 家族から執筆を邪魔されるという確信。
- Netflixに興じていては食っていけなくなるという確信。
どちらもまだ起きていないことです。憶測です。ただ、推定している本人は、その「蓋然性は極めて高くほとんど100%!」と考えてしまっています。
奥さんなりにひと言聞いてはなぜいけないのでしょうか?
「私が家でものを書いていると何か癪に障るのか?」と。
ある種の人は必ずこれに反論するでしょう。
「そんな聞き方をしても、相手は決して本音を言わないだろう」と。
なぜそれがわかるのでしょうか。
ここでも同じことをやっています。
その「蓋然性は極めて高くほとんど100%!」と考えてしまっています。
そもそも相手が口にする「表面的な言葉には決まってウラがある」という確信は、けっきょくのところ「相手の考えていることはわかっている」というエスパーじみた想定から生じているはずです。
しかし私たちは誰もエスパーではなく、テレパシーもないと私は思っています。
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第2回は
「自分は発達障害かもしれない」
をテーマにします。
「不注意の物忘れやミスが多い」
「先送りがたえない」
「コミュニケーションが苦手」
「人から叱責されるのが耐えられない」
などの「特徴」をもつとされる「大人の発達障害」も私には「フロイト流に」説明したほうがよほどわかりやすいように思えるところがたくさんあります。
私自身が「ADDの特徴をイヤになるくらい備えている」のです。
しかし私は自分を「発達障害だ」と思ったことは一度もありません。