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簡単に実行できそうな計画すら達成できない理由


ところが、つき合いをよくしようとするために少しずつ無理が生じてくる。一緒に飲んで 喋っているうちに、その場に居合わせぬ人の悪口を言い出すと、つい無理をして、言わずもがなのことまで言ってしまう。

ところが帰宅してみると、悪口を言いすぎたと思って電話で訂正してみたり、それとなく悪口を言った当人の御機嫌を伺ったりしなくてはならない。なかなか人間はあちらにもこちらにもつき合いよくは出来ないものである。

『働きざかりの心理学』

佐々木正悟 いわゆるよくある話です。決してそう「目からうろこが落ちた」というほどではないでしょう。

ただ、こうしたことが起きてしまうのはどうしてでしょうか?

やはり「ムリ」が生じているからです。

当初私たちは「一貫した方針」を打ち立てたがります。
たとえば「つき合いをよくしようとする」のです。
これだけならそう「ムリ」はなそうですが、そういうわけではないのです。

付き合いをよくしようという「一貫した方針」の結果として

一緒に飲んで 喋っているうちに、その場に居合わせぬ人の悪口を言い出すと、つい無理をして、言わずもがなのことまで言ってしまう。

といった事態に直面するからです。

私たちは「自分がどんな現実に直面するか」を知りません。生きていると「これでもか」というほど想定しようもない事態がどんどん投げかけられます。

「言わずもがなのことまで言って」しまった人があとになって「悪口を言った当人の御機嫌を」伺ったりする様は、いかにも「ブザマ」ですから「自分はそんなふうにならないように生きたいものだ」と少なくない人が思うのです。

そのためにこそ「鳥瞰的」な「目標」を立てて「ミッション」のようなものに基づいた生き方を模索するというわけです。「居酒屋」でも「帰宅後」でも「人に悪く思われることのない立ち居振る舞いをする」といったような目標に沿った「人格」をあらかじめ形成しておきたいというような意味です。

もっとシンプルに「人の悪口をいっさい言わない」といった「ミッション」でもいいでしょう。

これは「ムリのない目標」のように思えるのです。なぜなら私たちは「現実」が実際にどんな事態に直面させようとしているか、そのバリエーションの豊富さをまったく予想できないからです。

毎日、朝、5分、それがムリなら3分でいいから「英語の本を読む」なんて、全く簡単そうです。どこにもムリはなさそうです。

でもこの場合もまったく同じです。私たちは「現実」が実際にどんな事態に直面させようとしているか、そのバリエーションの豊富さをまったく予想できないのです。

あらゆる事態は想定できない

英語の本を毎朝、寒い日も眠い日も5分間、30日にわたって読破できたとします。これはかなりの長い期間です。

でもなんだかちっとも、1ミリも「英語力」がついてきたように思えません。

その翌日、新型ウィルスに感染したのか、朝から高熱が出ています。こんな日に、5分だろうと2分だろうと、英語の本など読む気がしません。

その後、病状が回復して熱が下がったとき、猛烈なむなしさに襲われたとしましょう。いったい、毎朝ムリをして英語を読んできたのはなんだったのだろうか?

この程度までであれば、ここに書いたとおり私でも「想定」できます。だからこの程度の事態に見舞われても、なんとか「習慣」を維持できるかもしれません。

しかし私の経験では、現実が投げてよこすのはこれをたやすく超えた、全く想像もできないような「障害」なのです。そんな事態まで想定しようというのがそもそも「ムリ」なのです。

しかし非常に面白いことに、本を一冊書き上げるとか英語が読めるようになるという「目標」なら、私は達成できてきました。こういったことは「結果」なのです。私はこういったことがらについて「目標を立てた」ことがなく、立ててうまくいくという感覚を生まれて一度ももった試しがありません

若いころは「それは自分があまりに怠惰だからだ」と思っていましたが、今ではそうは思いません。私は人並み外れて怠惰なわけではないと思います。人並みに怠惰なだけです。

「現実」がどれほど思わぬ事態に直面させても「なぜかできること」はあります。

私は無計画で、無目標で、刹那的で、受動的です。それでもどうしてかやれていることがいくつかはあります。

編集さんやら、家族やら、知人やらになにかを頼まれたり依頼されたりします。

それができるかどうかは、今までにやれてきたかどうかだけをイメージして決めます。

「本が書けるか?」といわれれば書けるでしょう。「本を書き上げる」というゴールを未来に置かなくても、過去に書けているのだから書けるのだろうと思います。

このシゴタノ!しかりです。