午前10時50分発の、こだま650号東京行きの11号車の中で、この記事を書いています。
約3時間30分のこだま号の中で、私はどのようにして「過ごすのが正解」でしょうか?
3時間もあるのだから、食事、ブログ書き、そしてシゴタノ!の記事を書いた上、さらにはビジネス書の一冊も読んでおくべきだという「正解」もあるでしょう。
あるいはそんな「意識高い系」のことなんか一切やめにして、京都、琵琶湖、名古屋、浜名湖、富士山、小田原城の風景を愉しんで、ゆっくり過ごすべきかもしれません。
そういう風景を愉しむのはいいが、適宜Facebookや、ふだんは使っていないインスタグラムに投稿して、SNS共有の楽しさを覚えるべきかもしれません。
以上すべてのいいとこ取りをして、折衷案で行くのもいいでしょう。
私はこのどれを選んでも何ら差し支えないと思う。
ただ、このうちのどれが「正しい時間の使い方なのか?」という思考になってくると、どれもうまくいかなくなります。
正しさを追求すると、先送りだらけになる
たとえば「仕事と原稿書きのために活用するのが正解!」としてしまうと、万が一、シゴタノ!の記事一本すら上がらなかったとき、
- 200分も使って、シゴタノ!すら書き上がらなかった!
- こんなことなら、富士山を見てコーヒーすすっていた方がどんなに良かったか!
という奇々怪々な後悔の念にさいなまれることになるのです。
- 「正解なんてわからないから、正しいかどうか気にせず、好きなように時間を使おう」として原稿を書く
のと、
- 「仕事をすることが正しいのだから」として原稿を書く
のは、大きな違いをうむのです。
どのように時間を使うのが正解か、などということは分かりません。わからない中で私たちは何らかの選択を続けていって、可能なかぎり満足を覚えるほか、ありません。
たとえば私は、昨晩大坂で0時30分にベッドに入り、今朝7時30分に起き、午前10時50分発の、こだま650号東京行きに乗っています。
これをほぼ確実にするためにたすくまを使ったのです。
- そうしたのは「正解」でしょうか?
「ぷらっとこだま」というサービスを使っているので、これ以外の電車に乗ってしまうと、完全に別料金を支払わなければならなくなります。だから私は、こだま650号に乗ることだけはこだわったのです。
無事それに乗れています。しかしこれが正解であるとは限りません。この先でこだま650号が大事故に遭う可能性だってなくはないからです。もしそうなったなら、たとえ新大阪から品川までの別料金を払ったとしても、違うのぞみ号にでも乗っていた方が「正しい選択だった」と言えるはずです。
計画というものが正しいと言えない以上、計画通りにきちんとやるべきことをやることが「正解である」とは絶対に言えないのです(ここで私は「絶対に正しいことなどわからないことは、絶対に正しいはずだ」と言っていることになります)。
シゴタノ!を書きあげたのは「正しい」ことでしょうか。それだって分かりません。いまシゴタノ!を書き上げられないことによって、明日にでも「シゴタノ!」にまったく違うネタで書けるかもしれず、それが私の本を大ヒットさせ、ミリオンセラーにつながらないとも限りません。
未来は不確かだから、何をしようとあまり意味がない、と言いたいのではありません。
私がむしろ言いたいのは、「正しくやろう」とするプレッシャーは、費用対効果だけを見ても、馬鹿馬鹿しいほど増長しがちであって、決して正当化できるようなものではないということです。
正しさを追求すると、選択肢が減り、さらに悪いことに、失敗するリスクを全部回避しなければならなくなって、現実には先送りだらけになります。
3時間半の時間があれば仕事を進めるのが正しいとするから、富士山をぼんやり眺める時間すら失ったあげく、しかも書き上げるプレッシャーのせいで、ふだんなら30分あれば終わる仕事が200分あっても終わらなくなるのです。
大げさな気もします。
が、大げさなのはプレッシャーです。
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はっきり言って少々お高い気がしますが我ながら。でもこれはちょっとありがちなセミナーとは違って
「受講生がマンガを書けるようにする!」
のが目標です。
言うまでもないことですが、私がメイン講師ではありません。
私は企画を検討する側であり、最後まで書き抜くための習慣作りだったり、時間管理のしかたであったりといった方を担当します。
もちろん、マンガの書き方をレクチャーする岡野純さんの「時間の使い方」も講義の内容に入っています。会社員をずっと続けていて、なおかつプロの漫画家みたいに作品もあげているので、この話を聞かない手はないでしょう。