本にはいろいろな読み方があります。そのどれもが間違いというわけではありません。いろいろな読み方ができることが、ある意味で、本というメディアの最大の特徴と言えるでしょう。間口と裾野が広いのが本のメリットです。
が、それはそれとして、一番最初に本を読むとき、つまりある本の一読目は、「歌を聴くように」読むのがいいのではないか、なんてことを考えています。
音楽をそのまま聴くこと
ごく普通に歌を聴くときは、たぶんそのまま曲に耳を傾けるでしょう。
「この音はラだな。次の音はファか」などと一つひとつの音に注目することは少ないでしょうし、「この小節はCのコードだな」といった小さな塊で捉えることも(音楽家を除けば)ほとんどないでしょう。
また、多少歌詞でわからないところがあっても、そこにこだわることなく、耳を傾け続けるはずです。音楽を止めて、「あそこは何を言っているんだ」といちいち考えこんでいては、なかなか曲を聴き終えることはできません。
多くの場合(つまり特殊な職業や環境に置かれていない限り)、人は曲をまず全体として捉えます。リズムのノリ、メロディーの流れ、歌詞がだいたいでどんな世界を描いているのか。それを受容することが、音楽を楽しむ第一歩です。まかり間違っても、一小節目の音がラなのかファなのかわかっていなければ、音楽を聴いたことにはならない、なんてことにはなりません。第一歩は全体を感じること、受け取ること、受容することです。
もちろん、その後に細かい分析に入ることはいくらでもできますし、そうした方がより深い理解に届くことは十分あるでしょう。しかしそれは二歩目、三歩目であって、やはり最初の一歩は全体を味わうことになるかと思います。
たとえざっくりであっても、全体としてその音楽がどうなっているのかを感じること。それが、スタートです。
全体としての本、メロディーとしての文章
本を読むことにも、同じことが言えないでしょうか。
細かい表現やわからない箇所にとらわれるのではなく、まず全体としての本を受け止める。大筋として著者が何を言っているのかを理解し、文章の展開やリズムを楽しむ。そのような摂取のスタイルが、読書の第一歩目としては良いのかもしれません
もちろんそれは精緻な読解とはほど遠いものです。しかし、精緻に読解しなければ読んだことにならないというのはあまりにも乱暴でしょう。ピエール・バイアールも『読んでいない本について堂々と語る方法』の中で、テキストの出会いとは「読んだ」と「読んでいない」の間に位置づけられると述べています。
瑣末なことに注意を向けすぎるのではなく、まずは全体を大まかにでも受容することを心がける。あるいはコアとして著者が何を言おうとしているのかを掴まえる。文章を楽しみ、論理を楽しみ、展開を楽しみ、表現を楽しむ。
その中で、たった一行でもお気に入りの文章と出会うこともあるかもしれません。それは、音楽を聴いたときに妙に頭にこびりつくメロディーに出会うのと同じようなものです。それだけでも、十分読書の「成果」はあったと言えるしょう。
さいごに
上記のような本の読み方は、おそらく難しくはないでしょう。むしろ、本を読むことを難しく考えれば考えるほど、遠ざかってしまう情報摂取スタイルかもしれません。それで妙に理屈をこねくり回し、枝葉にこだわり、本の全体像を見失ってしまう。それは少しもったいないものがあります。
難しく本を読むことが偉いわけではありません。いや、偉いのかもしれませんが、それは本を楽しむことととは本質的に別のお話です。
こねくり回すようなアプローチは第二歩、第三歩にとっておき、まずは音楽を聴くように本を読んでみること。それが楽しい読書ライフへの第一歩になりそうです。
▼参考文献:
そもそも本を読んだとはどういうことなのか。それを考えるきっかけをくれる一冊です。
» 読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)
▼今週の一冊:
今ちょうどこの本を読んでいて、考えたことを今回は記事にしてみました。書いてあることが十分に理解できているかというと、別にそういうわけではありません。
でも、まったく読めないのかというと……、ここで「読むとは何か?」という問題につきあたります。わからないなりにわかる、あるいは、わかるなりにわからない、というのがあって、その間をふよふよと漂っている感じです。でもって、それもやっぱり読書ではあるでしょう。
» 動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学 (河出文庫)[Kindle版]
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。