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そのためには日頃から書くことを習慣にするしかない

「あれ?」とか「おや?」と感じることがある。

ガスの元栓や玄関のカギかけなど日常的にやっていることは、無意識にできてしまうことが多い。無意識なだけに、電車に乗りこんでから「あれ、締めてきたっけ?」と不安になることがある。「そういう場合でも99%は無意識に締めているものである」とする記事をどこかで読んだ。

無意識の下でも「センサー」は働いているらしい、ということに最近気づいた。

家を出る時に、いつも欠かさずやっている一連の手続きがある。それは財布やカギを身に付けたり、パソコンの電源を落としたり、電気を消したり、といったものである。それらは「家を出る」という指令を受けると自動的に処理を始め、「家を出る」に向かって一直線に動き出す。その過程には迷いや選択の余地はほとんどない。だからこそ無意識なのか、あるいは無意識だからそうなのかはわからないが、とにかく淡々と処理が進む。

その日はなぜか家を出てからずっと「そぞろ」な気持ちがぬぐい切れず、かと言って具体的に何かを忘れたような実感もなく、心のどこかに口を開いたらしい小さな穴の在処をずっとまさぐり続けていた。見つからない。

一般に、そこに「在るもの」に気づくことはたやすいが、「無いもの」に気づくことは難しい。「在るもの」は「無いもの」の裏返しであり、本質は常に「無いもの」の中に身を潜める。山折りをすれば、その裏は谷折りになり、中高年の雇用テコ入れを図れば、若年層の就業機会が犠牲になり、自社が受注をした裏では、他社が失注している。

そこに「無いもの」でも、あたかも「在るもの」であるかのように感じられることがある。それはただならぬ大発見の始まりを予感させ、あるいは袋小路の入り口に過ぎないかも知れない。いずれにしても、それを感じるためには sensational に躍らされることなく、小さな変化に sensitive になる必要がある。

「センサー」に引っ掛かるということは、ある程度のパターンが自分の中に構築されているということである。受信したいつもの信号が規定のパターンに合致しないために、それが「あれ?」とか「おや?」といった違和感や「そぞろ」な気持ちとして浮上する。

その気持ちをいかにストレートに言動に変換できるか、が分かれ目になる。