※当サイトはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています。

なぜ「本来の仕事」ばかりを先送りしたくなるのか?

真っ先にやるべきことを、一番最後に手をつける。
これはたまにやっても精神衛生上よくありませんが、やるときには頻繁にやってしまいがちです。

「やる気が足りない」とはよくいわれることですが、気力や精神エネルギーだけの問題でしたら、「先送り」している間にやっていることの方が、大仕事だったりすることがあります。

たとえば、あくまでも私の場合ですと、面倒な原稿書きを「先送り」にして、部屋の大掃除を始めたり、書籍を大量に売りさばくなどといったことです。やはりやってしまうときにはやってしまうものです。

問題は「面倒な原稿書き」などと感じてはいるものの、実は部屋の大掃除の方が時間も体力も余計に使うものだったり、書籍を大量に売りさばくのも、原稿を書いた方が楽だし時間もかからなかったなどということがあるわけです。当然、深くひどく後悔します。

最近、色々な人に「つい最後の最後まで先送りしてしまうもの」を聞き回るチャンスがありました。「やらなくちゃいけなくて、大切な仕事で、時間も迫っている仕事ほど、最後の最後まで手がつけられない」という、マーフィーの法則のような回答をいくつかいただきました。

これが「やる気」の多寡以外の原因だとすれば、「先送り」の対象に「大切な仕事」が選ばれがちな理由は、いったいなんなのだろうと考えました。

そして、考えた挙げ句行き着いたのが、「先送りの対象となる仕事」に必ずからんでくる要素として、「自分で最終的な見通しを立てることがひどく困難か、あるいは不可能なこと」だということに思い至りました。

一定の形まで成果を整えることはそう難しくなくても、「最後までやり遂げる」ことはひどく困難なものです。仕事に見通しを求めるのは自然のことです。自分では十分だと思って出したものを、簡単に突き返されたりすると大変な苦痛を覚えます。簡単に突き返される可能性を想像しただけで、やる気は萎え、何か他の、「やり遂げなくてもいいこと」に手を出したくなってしまいます。(これが前述の書籍売却や掃除です)。

これとよく似たい心理に苛まれた思い出が、受験勉強でした。受験勉強をすること自体は、それほど難しい話ではなかったものの、受験勉強に見通しというものは、究極的にはありません。どれほど勉強しようと、最終的に大学に入れないということになると、受験勉強という「仕事」は「完遂しなかった」ということになってしまいます。原理的に最後まで見通しが立たないわけです。

原理的に最終的な見通しが立たないものは、その手前にゴールを仮設定するしかありません。私の場合なら、可能な限り、ゴールの決定権を持つ人(編集さん)のイメージを精細に詰めていただき、こちらの側からはそのゴールにちゃんと近づけているかどうかを、早い段階で次々に確認を取るようにします。

つまり、スタート時にゴールのイメージを出来るだけ細かく規定し、そのゴールへ向かうプロセスを、さらに細かく分割しながら取り組むようにします。

言うまでもなくこれを実施するには、日数が余計に必要となります。ですから、早め早めに取りかかるに超したことはありません。逆説的にも、取りかかる日にちを遅らせれば遅らせるほど、ますます先送りにしたくなるという、悪循環に陥ります。