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「自分探し」の原点

「自己実現」という用語は、今ではかなり多様に使われていますが、これがもっともよく登場するのはやはり心理学の分野です。この語を作ったのは、心理学者クルト・ゴールドシュタインだといわれていますが、広めたのはほぼ確実に、エイブラハム・マスローでしょう。

現在の多くのビジネス書、特に「自己啓発」としてカテゴライズされる書に多く見られる考え方は、マスローに負うところが極めて大です。特に、心理学的な側面について、それが言えます。

金銭や出世ばかり追い求めず、「本当の価値」を目指す。親や社会の期待ばかりを考えず、「自分の内なる声」に耳を傾ける。人生は選択の連続である。小さくまとまることなく、「最高の自分」を目標に置く。

すべて、マスローがいくども強調したことで、アメリカならば、心理学のほとんどの教科書に登場し、さらに経済学でも社会学でも宗教学でもお目にかかるものばかりです。彼の死後に刊行された、『人間性の最高価値』(邦訳は1973年)には、以上の考え方がすべてまとめられ、その上ビジネス、企業経営、組織経営への応用の仕方についてまで言及されています。

人間性の最高価値
人間性の最高価値 上田 吉一

誠信書房 2000
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本書の装丁は、必要以上にお堅い感じになっていますが、中を読んでみると、非常にまっとうな内容だということがすぐに分かります。本書が今あまり読まれないとすれば、内容が学術的だからではなく、30年以上昔に刊行されたからでしょう。タイトルの堅さ、装丁の雰囲気、著者名がひどくビッグネームであることなどから、本書はその中身とは全く別物のように、見えてしまっているのです。

マスローの「欲求段階説」

マスローの心理学が紹介されるところには、決まってこの「欲求階層説」が登場します。すなわち「低次欲求」(生理的欲求を基調とする)、「高次欲求」(人間関係や、社会的貢献への欲求)、そして「メタ欲求」(自己実現への欲求)へと、段階的に欲求を満たしていくわけです。そういうモデルなのです。

言うまでもなく、自己実現を目指している人でもトイレに行きたくはなりますし、社会貢献を旨とする人が、ピザのデリバリーには目もくれない、というわけではないでしょう。逆に、ほとんど職場の愚痴ばかり言っている人が、自己実現と無関係に生きているなどとは言えません。そういうことはマスローにも意識されていたので、この階層モデルに対する修正の構想を、晩年まで抱いていたようです。

ただし、この階層モデルで重要なのは、最高次に、すなわち社会的貢献や人間関係への欲求の上位に、「メタ欲求」を置いた点です。その上でこれを、「科学的モデル」となるように企図したところです。その目的のためにマスローは、そういう「メタ欲求」をもっているらしき人たちを、統計的に調査したわけです。これは今でも容易ではなく、まして1960年代では、かなり難しい壮大な計画でした。

1960年代と言えば、心理学はフロイトの精神分析を中心とした人間心理のモデルか、そうでなければ行動科学のモデルを受け入れるのが当然という時代だったからです。つまり、人間は「無意識に翻弄される存在」か、そうでなければ「報酬と罰によって行動がパターン化される動物」か、いずれかの存在として規定されていたからです。マスローの心理学がしばしば、フロイト派でもなければ行動主義でもない、「心理学の第3勢力」と見なされたのは、このような時代的背景がありました。

マスローの「自己実現を目指す方法」

とはいえ、いわゆる「メタ欲求」を満たすべく生活している人たちが、どのようにして「自己実現」を、日々、現実的に目指しているのかを明らかにする必要がありました。もしその方法が、「座禅」というものだと、これは「宗教を心理学的に説明した」だけにとどまってしまうからです。それはそれで1つの切り口かもしれませんが、マスローは前述したとおり、持論をできるだけ「科学的モデル」にまとめようともくろんでいました。だからこそ、調査した「メタ欲求を中心において生きている人たちに、共通する生活信条」を見つけようと、切り込んでいったわけです。

その結果、彼が発見したのは、以下のような「方法」でした。

  • 損得を忘れ、仕事に打ち込むこと。または、打ち込めるような仕事に従事すること
  • より「高次の」欲求を満たすか、「低次の」欲求に甘んじるかは、日常が選択の連続だと認識するかどうかにかかっている
  • 自己の内なる欲求にしたがうこと
  • 事件や人々の、「最善の面」を見るように心がけること

 
以上は明らかに、駅中の書店の自己啓発書に載っているようなことばかりでしょう。しかしマスローはこのような「方法論」を、師事したマックス・ウェルトハイマーやルース・ベネディクトといった人たちが、「現にそうしている」という、眼前の事実から導き出したのです。彼らにしたところで、「完全な人間」というわけではなかったでしょうが、相対的に「より完全に近い」とマスローには見えたのでしょうし、それらの人々が、一般的な人よりも強く心がけているらしいことを抽出した結果、上述の「自己実現のための方法」が見つかったというわけでした。

ヨナ・コンプレックス

しかしそれでは、なぜ「メタ欲求を中心において生きること」がそれほど難しいのでしょう? ざっと見る限り、損得を忘れて仕事に従事したり、自分の内なる欲求にしたがって生きたり、事件や人々のポジティブな面に注意を集中することが、それほど難しいこととは思えません。だいたいそういう風に生きるべきだということは、どの人でも口にしそうなことばかりです。

経済的に得する仕事だけ一生懸命やれとか、定時の欲求に甘んじておけとか、自分の内面の声を無視し、ひたすら他人の顔色をうかがうべしとか、他人の悪いところを愚痴れとかいった「人生訓」をことさらに喋っている人など、私は見たことがありません。「自己実現の方法」を知っている人はたくさんいるわけです。しかし、ルース・ベネディクトクラスの人となると、どう見ても圧倒的に少数者です。私たちにとって、いわゆる「自己実現」を目指す上で、そんなにも障害となっているのは、何事なのでしょうか?

マスローの答えは、「ヨナ・コンプレックス」。彼によれば、私たちは「最高の自分を発揮する力を抑制するクセが、半ば常習となっている」のです。彼の有名な、学生に問いかけたという逸話があります。マスローは特に心理学の大学院生に対して、「君たちは、今どうやって、フロイトやウィリアム・ジェームズに匹敵する、偉大な心理学者となる計画を立てている?」とたずねたというのです。

これに対して明確に答えられない学生に対して、マスローはすかさず、「大学院で心理学を学んでいる君たちが、偉大な心理学者になるつもりはないというのなら、偉大な心理学者になるのは、じっさいのところ誰なんだ?」と問いただしました。

マスローによれば、私たちは「最悪の結果を恐れているのと同じくらい、最善のものも恐れている。生涯の使命を果たす勇気がなく、自分自身の可能性から逃避しようとする」のです。これもまた、聞き飽きても当然なくらい、あちこちで言い尽くされている類のことですが、この問題は明らかに「聞き飽きるほど聞いている」だけでは解決不能な問題です。ヨナ・コンプレックスがよくないのは、これが本人にとっても他人にとっても、誰にもよい結果をもたらさないのに、容易に「無意識の常習」になってしまうことなのです。