今回は048を。論文に関する本はまだいくつかあるのですが、先にこの本を紹介しておきます。
- 『実践 自分で調べる技術』(2020)
『実践 自分で調べる技術』
2020年出版の本書は、知的生産の技術書の中でもかなり新しい部類に入るでしょう。「実践」がついていないver1.0にあたる『自分で調べる技術』も2004年に出版されており、こちらも──1970年代に比べれば──ずいぶんモダンと言えます。
では、なぜ現代において「自分で調べる技術」が重要なのか。もちろんそれは、現代が情報社会であり、私たちがその社会で生きる市民だからです。
私たちがふつうに生きていこうとするときに直面するさまざまな問題を考えるために、調べることが大いに武器になる。社会全体として解決しなければならない問題を考えるために、調査が活用できる。調査をうまく使いこなすことにより、私たちが私たちらしく生きていくことができる。この本は、そう主張したいと思います。
この社会が(あるいは人が生きることが)単純なものであれば、わざわざ何かを調べる必要はありません。もっとも有効な手段を選択すればいいだけです。
しかし、たくさんの価値観があり、状況がトレードオフになっていて、「もっとも有効な手段」が簡単には決められないような状況のとき、私たちはまずその状況について調べなければなりません。その上で、考え、判断を下すことが必要です。
市民が持ちうる情報が限られているならば、そうした調査は手の届かない行為だったでしょう。しかし、現代では(あるいは現代日本では)市民が持てる情報が飛躍的に拡大しています。そうしようと思いさえすれば、いろいろなことについて調べることが可能なのです。状況を読み解くことができるようになっています。
一方で、そのように情報がたくさん手に入る状況は混乱も引き起こしています。大量に流れ込んでくる情報の中にあって、何が有用で何が有用でないのかが判別しにくくなっているのです。
そうしたとき、私たちは「権威者」に頼りがちです。正しいことを知っていそうな人の判断をそのまま受け入れてしまうのです。それは、インフルエンサーかもしれませんし、あるいは報道メディアかもしれません。はたまた、プロパガンダによって作られたフェイクニュースということもありえます。
どういう「権威者」を頼るにせよ、それは自分で調べず、自分で判断することなく決定を下していることに相当します。SNSでは、そうした傾向がより強く見受けられます。タイムラインに流れてきた情報を、何の吟味もすることなく、ただ条件反射的に拡散していく行為。その情報がもしかしたら間違っているのかもしれない、という疑念を1mgも持たずに、拡散していく行為。自分の価値観にフィットする情報源だけに囲まれていればいるほど、そうした行為は強化されていきます。
だからこそ「自分で調べる」技術なのです。
保留の感覚を手にする
もちろん、自分で調べたら、それで正しい情報がすぐに手に入る、というわけではありません。結局それは、「権威者」を自分に移し替えただけでほとんど何も変わっていない状態です。
そうではなく、実際に自分で調べることをやってみると、何か「正しいこと」を言うことの難しさに気がつけることが大切なのです。
そこにはどうしたって限界や保留がつきまとわざるをえない、ということがわかります。それがわかると、巷に溢れる情報とのつきあい方も変わってくるはずです。
何かを「調べる」という行為は、何かしらの仮説やアイデアを思いつき、その正しさや確かさを調査するというステップを踏みます。つまり、何かの仮説を思いついた瞬間にそれを正しいとするのではなく、「それが正しいのかを調べてみよう」という判断の保留期間が生まれるのです。
大切なのはこの「保留」の感覚です。
日常的に大量に情報が流れ込んでくる時代だからこそ、この「保留」によって調律を施さないと、あっという間に私たちは流されてしまい、「私たちが私たちらしく生きていくこと」は難しくなってしまうでしょう。
さいごに
本書では、文献や資料の調べ方、フィールドワークの方法、リスク調査、データ整理からアウトプットに向けて、といった「自分で調べる」ための技術がまとめられています。後半では「004」で紹介したKJ法も紹介されていて、知的生産技術の系譜を感じることもできます。
一般的にこのような「自分で調べる技術」は、学者や専門家のためのものだと思われているでしょう。「論文の書き方」も、自分とは関係ないと思われる方が多いのではないでしょうか。
本書は、いやそうではないのだ、と主張します。専門家ではない、市民が調べるからこそ意義があるのだと説きます。むしろ、アカデミックなものとシビックなものとの架橋が目指されていると言った方がいいかもしれません。
誰かが提示したデータや結論をそのまま受け入れるのではなく、「自分で調べて、自分で判断する」ことを当たり前のようにする人たちが増えたとしたら、社会はいやおうなしに変わっていくことでしょう。
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まったく調べないか、ぐぐって終わりを「調べる」と言ってしまうような効率的な環境は、たぶんあんまり良くないのでしょう。そこには保留がまったくありません。車間距離が0の道路の状態みたいなものです。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。