※当サイトはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています。

休憩とは夢想に浸れる時間を持つこと



大橋悦夫ある映画(仮に作品Aとする)を観ていて、「あ、この役者はどこかで見たことがある!」と思ったらすかさず検索、多くの場合はWikipediaで出演作品をざっと確認、「やっぱり、これに出ていたよね」と納得、晴れて気が済む。

出演作が多い場合は、引き続き作品名の確認を行い「なんと、あれにも出ていたのか!」と分かれば、いてもたってもいられず、その作品(作品Bとする)をもう一度観始めてしまう。

たいていの場合、最初に作品Bを観たときはその役者のことは特に意識していないので、作品Aで初めて「気になる存在」に昇格したことで新たに手に入れた「目」を通して、改めて作品Bにおけるその役者の演技を再確認せずにはおれない。

作品Aにおける演技に加えて作品Bにおける演技を目にすることで、その共通点(あるいは輪郭点)の集合が得られる。

その結果「この役者はこういう役をこのように演じる」という輪郭を掴むことができ、以降はこの輪郭が認識を助けてくれるようになる。

従って、作品ごとにまったく異なる役柄を演じる役者は輪郭点が分散するために、出演作を観れば観るほど「つかみ所のなさ」をつかまされることになり、ますます引き込まれることになる。

たとえば、ホアキン・フェニックスは以下の作品それぞれで同じ役者とは思えない様々なキャラクターを演じ分けていて、どれが本人なのか、どれも本人ではないのか、といった夢想が楽しめる。

  • 『サイン』(2002)
  • 『容疑者、ホアキン・フェニックス』(2010)
  • 『her/世界でひとつの彼女』(2013)
  • 『ジョーカー』(2019)

そんな夢想にどっぷりと浸れているとき、同時に「休憩」も捗っているのだと思う。

関連記事

音声026:倉下忠憲さんと「休憩の取り方」について対談(後編) - シゴタノ!記録部