知的生産とは「頭を働かせて」行うものです。言い換えれば、知的生産のコアは、人が脳を行使して生み出すものに含まれています。実際この文章の書き出しをどうするのかについて、私の頭はさんざん「働いて」、その結果を出しました。
野口悠紀雄さんは『AI時代の「超」発想法』の中で、KJ法への批判として次のように書かれています。
このように、「普通の人は頭の中でやっている作業を、なぜわざわざカードに書く必要があるか?」という点が、KJ法に対する最大の疑問です。川喜田氏は、「(KJ法は)発想的情報処理を外の世界に客観的に一部ずつ投射し、アタマの過重負担をさける」のだとしています。確かに、ある段階以降になれば、思考を頭の中に置いておくより、文章などの外部形態にするほうが「アタマの過重負担をさける」のに役立ちます。しかし、KJ法は、これをあまりに初期の段階(断片的な思考間の関係がつけられていない段階)で行なおうとしています。それが問題なのです。
この点について、私は半分同意し、半分は反対します。
頭だけではできない人
先日発売されたTak.さんの『書くための名前のない技術 case 2 Marieさん』の冒頭にはこんなことが書かれています。
頭の中で文章を組み立てることができず、それどころか何について書くか決めることさえできず、書いてみるまで何が出てくるかわからない私は、アウトライナーを通じてはじめて、多少なりとも書くことを身につけられたのです。
アウトライナーについての文章をたくさん書き、こうして本も出版されているのだからさぞかし文章を書くのが得意なのかと思いきや、そうではないわけです。「頭の中で文章を組み立てること」ができない。そういう人であっても、アウトライナーを通すことで、「書く」ことができるようになった。この点はぜひとも注目すべきでしょう。
野口さんは「普通の人は頭の中でやっている作業」と述べられました。しかし、この「普通」が曲者です。それは、全人口のどれくらいをカバーするのでしょうか。そして、それが100%でないとしたら、そこから外れてしまう人たちはどうしたらいいのでしょうか。
「そんな人間は知的生産に関わるべきではない」
そんな結論はあまりにも寂しすぎます。ノウハウ論の敗北とすら言えるかもしれません。
たとえ短い記事であっても
さらに先日、大橋悦夫さんが次の記事をアップされていました。
ちょっとした文章をアウトライナーで書いたら楽だった、という話です。
改めて、最初から「完成した文章」を書こうとすると負荷がかかることに気付きました。
ある程度アウトライナーに親しんでいる人なら珍しくない経験でしょう。真っ白なエディタに(しっかりした)文章を書こうとすると手が止まるのに、アウトライナーで気楽に箇条書きをするとするすると材料が湧いてくる。あとは、それに手を加えたら完成。そんな感覚です。工程が分離されているような気楽さを感じるかもしれません。
言うまでもなく、アウトライナーを使おうが使わまいが、文章を作成する上で自分の頭は働いています。機械的に生成しているのではなく、頭の中にある素材を使い、その構成を考えて、文章を紡いでいるのです。
でも、その作業の負荷は分割されています。何を書こうとしているのかを覚えておく必要もありませんし、すでに確定した部分の流れを記憶に留める必要もありません。たったこれだけのことで、そこで行われる知的作業の負荷がぎゅっと軽減されるのは驚くべきことです。逆に言えば、ゼロから文章を立ち上げようとするとき、脳はその負荷を同時に抱え込もうとしているのでしょう。なかなかできなくても仕方がありません。
さいごに
野口さんが想定される「普通の人」であれば、あまりの初期段階から脳の外に預けるのは非効率なのかもしれません。しかし、万人が万人「普通の人」ではないでしょう。
そして、「普通の人」でないならば、バンバン頭の外に素材を並べていけばいいのです。そうして脳の負荷を減らし、そのことによって頭を働かせることができるなら、それに勝る結果はないでしょう。
さらに言えば、「普通の人」であっても、多少疲れているときだとか、逆に自分の手に負えない巨大なアウトプットを行うときなどは、こうした手法が役立つと思います。
▼参考文献:
いろいろツッコミを入れてはいますが、発想について考える示唆にとむ本です。
発売になったばかりの新刊です。短いですが、読みどころは満載です。
▼今週の一冊:
名前のとおり、整理術についてではなく、そのアンチテーゼについて書かれています。一般的に予想される「整理術」の内容を期待すると肩すかしを受けるでしょう。でも、それを通り過ぎると、実に明快な話が展開されます。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。