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記録で自分を塗り替える


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大橋悦夫越前屋俵太(えちぜんや・ひょうた)さんという人をご存じでしょうか?

「探偵!ナイトスクープ」や「世界ふしぎ発見」といったテレビ番組でレポーターを務めていた人物、なのですが、ちょっと、というかかなり変わった方で、ご存じの方であれば、思い出すと同時にニヤニヤしてしまうのではないかと思います。

今でいえば「芸人」というカテゴリーに入る方だとは思うのですが、特徴的なのは芸能事務所に所属せずにフリーで活動している、ということです。

しがらみから逃れ、たとえ損をすることがあったとしても自分流を貫き通したい、という意志を感じさせます。

そんなオウン・スタイルにこだわる越前屋さんに対して、芸能界の先輩たちは事務所に所属したほうがいいと諭します。

例えば、島田紳助さんは以下のような巧みな喩えを使っていたそうです(越前屋さんの著書『想定外を楽しむ方法』より)。

俵太なあ、芸能界はバイクのレースみたいなもんや、みんな大会にエントリーしてゼッケン貰って走るわけや!

それでな、みんな乗ってるマシーンも違うねん。俺はまあ400ccや、村上ショージは自転車かな、Mr.オクレさんは三輪車や。

どう考えたって俺のほうが速いに決まってる! 乗ってるバイクも違うしな!

俵太! お前は確かに速いねんけど、コースの外、走ってんねん!

せやから、なんぼ速ても、お前の記録は絶対に公認されへん、非公認やで!

これに対して、越前屋さんは次のように答えます。

紳助さん、僕はただ単に速く走りたかっただけなんで、別に非公認でもいいです。

もしスタジアムでそのレースを見てて、コースの外を走ってるのに、メッチャ速い奴がいたら、僕やったら絶対そいつのファンになると思うんで、やっぱり
エントリーしなくていいです!

このように、あえて「コースの外」を走り続けた先に、いったいどんな結果が待っているのか?

「自分にできること」さえやっていればいい?

ご本人も書かれていますが、島田紳助さんに対してつっぱった答えをしつつも、明確な答えがあったわけではなかったようです。

単に人を笑かしたいのであれば、普通にただ面白ければいいわけですし、そんなに世間と闘いたかったのなら、お笑いなんかせずにロックミュージシャンになって、ストレートに歌で表現するという道もあったと思います。

でも、結局歌も歌えないし、楽器も出来ないから、まずミュージシャンは無理だろうと勝手に思い込んでました。

そういえば、あるとき、ギタリストのCharさんといろいろ話をしている中で、思い出したように急に僕が「ロックやりたいんですけど、楽器とか弾けないんで、たぶん無理ですよね?」って聞いたら、Charさんが「お前そんなに喋れたら、それだけで十分ロックだ!」って言ってくれました。

たぶん、自分のやりたいことと、自分の置かれた状況とか立場との間にギャップがあったんでしょうね。そのことも、ある程度わかってたとは思うんですけど、なんていうか、難しいかもしれないけど、誰もやってないやり方というか表現の仕方ってあるはずだと勝手に思っていて、ずっとそれを探してました。

早い話、出来ることだけをやってればよかったのに、出来ないことばかりやろうとしてたんですね。

自分で勝手にハードル上げて、飛べない自分を勝手に悔しがってた感じです。

最後の「出来ることだけをやってればよかったのに、出来ないことばかりやろうとする」というくだりにはハッとさせられます。

「自分にできること」とは何か?

人と同じことはしたくない、というこだわりは持ち続けたいものですが、あくまでも「自分のできる範囲で」という前提です。

こう書くと、実に消極的なスタンスのように思えますが、むしろ「自分にできること」だからこそ、できる限りの努力ができるとも言えます。

「自分にできないこと」はどれぐらい努力をすればいいのか見当がつきませんし、そもそも何をすればいいのかも判然としないでしょう。

「自分にできること」とは端的に言えば、記録に残せることです。

記録に残せるということは、自分が何をしているのかを把握できているということ。

記録が詳しく書ければ書けるほど、それについての造詣が深いということになります。

つまり得意になれるのです。

記録で自分を塗り替える

一方、まだ「自分にできること」と言えないことであっても、どうにかして記録に残そうと努力を続けることで少しずつ「自分にできること」に変えることができます。

つまり、何にしてもとにかく記録に残していきさえすれば「自分にできること」が明らかになっていきますし、「自分にできないこと」であっても、少しずつ
「自分にできること」に変えていくことができる、ということです。

記録が自分を塗り替えてくれるわけです。