しばしば冗談交じりにカウンセリングで、
- 「先生とお話しすると、調子を崩すんですよ」
と不満を訴える人がいるようです。
彼は次第に調子を崩していった。
夜眠れなくなり、気分が落ち込むようになった。
そして、カウンセリングでは以前の職場や家族に対する怒りや恨みを語るようになった。
一人で考えているとき、彼の結論は決まってポジティブなものだったが、面接室で一緒に考えていると彼の心には絶望的な結論が湧き上がってきた。
「すべて失敗だったんじゃないか」彼は心の痛みに苦しむようになった。
「ここに来ると調子が悪くなる」不満を訴えることもあった。
この相談者さんは最初「チック」を訴えてきたのです。その後チックは消えますが、カウンセリングはやめません。しかしそれで良くなったかといえば
- 「ここに来ると調子が悪くなる」
と言うこともあるほどだったわけです。でも来る。なぜか?
人はなぜ「何気なく」始めるのか?
もっと極端な例もあります。
土居健郎さんの『精神分析と精神療法』の中に、精神分析を開始してみて父親に暴力をふるうようになった来談者が、終結したら暴力をふるわなくなったという事例が紹介されています。
治療によって乱暴行為が始まり、治療の終結によって乱暴行為が終わったのだとすれば、一体治療は何の役に立ったか、という問題である。
こんな記述を平気でズバズバ書いていくところが土居健郎さんの圧倒的な面白さではあります。
たしかに表面的に見ればこれほど意味不明な話もないでしょう。
しかしよく考えてみれば、これはむしろあって当然のことがらだとも言えます。
何気なくGTDを始める
以前私はGTDの実践者さんにも、同じような話を伺ったことがあります。
その人によれば、何気なくGTDを始めてみて、「気になることを書き出してみた」ところ、あまりに多くの気になることが噴出して、ひどくイヤな気持ちになったから、それでやめてしまったというのでした。
なんとも興味深い話です。
この人はどうして「何気なくGTD」を始めてしまったのでしょうか? きっとふだんからなにか「気になることがモヤモヤたまっている」自覚があったからに違いありません。
しかし大量の「気になること」を目にして不快になったからやめてしまったわけです。はたしてそれで良かったのでしょうか? それでいいのだ、と言える間はいいのでしょう。
けれどもそうもいかなくなるからこそ、
- 「ここに来ると調子が悪くなる」
ようなところに通い詰めもするわけです。
つまりなにか問題があったとして、それを見て見ぬフリをしていれば、なんとかだましだまし紛らわしていることも可能なフェーズがあるわけです。
周囲の誰かがうまいことやってくれているのかもしれません。
でもその「誰か」がいなくなったり、イヤになってやめてしまったりすれば、事態は悪化します。やがて「見て見ぬフリ」ができなくなったとき「何気なくGTD」を始めたりするものです。
その結果が「とても気持ちのいいものだった」ということはおそらくないでしょう。
タスクシュートなどであっても同じことです。カウンセリングや精神分析なら、間違いなくイヤな気持ちになる機会があるはずです。
「ここに来ると調子が悪くなる」のではないのです。もともと調子が悪くなっていたからこそ「ここに来た」はずです。悪くなった調子を好転させるためには、見て見ぬフリをしてきたことを、見にいく時間が必要だというだけの話です。