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仕事が進まないのは「大変だから」ではない



佐々木正悟 私たちは便宜上、「体力が尽きた」とか「燃え尽きた」という表現を使いますが、現実に体力や気力が「ゼロになる」ことはありません

しかしだからといって、限界まできてもやろうと思えばがんばれる、という意味にもなりません。

「気力や体力が0」(つまりは死んでしまう)にはならなくても、朝起き上がることができなくなるということが、現実にあるからです。

そのとき私たちの身に、いったいなにが起こるのでしょう?

» みんなが羨むイクメンの優しい夫と離婚した話|らくだ|note

朝ごはんをつくる(ナンデ)、電気点けっぱなし(ナンデ)、子供を寝かしつける(ナンデ)、トイレのタオルを変える(ナンデ)、洗濯機をまわす(ナンデ)、コップ出しっぱなし(ナンデ)、保育園どうする(ナンデ)・・・

私は色々なことを我慢しているのに。夫がタバコを外で吸うためにドアを開ける音、お酒の缶を開けるプシュッという音がする度、イライラはさらに少しずつ募ります。

私たちが「仕事に行きづまる」ときにも、「精も根も尽き果てる」ときにも、こんな事態が進行していないでしょうか?

その結論として「協議離婚」にいたり、そうすると次のようなすばらしい開放感を(たとえ一時的にせよ)味わえるという件については、よく考える価値があります。

再び同記事より。

離婚しても、近所に住んで子育てを協力してやってほしい。私の希望を夫は了承し、決意することができました。

夫は子供に会える。子供は父親という存在がなくならない。私は一人で子育てを抱えなくて済む。全員にとってこの形がいいのではないかと思ったのです。

無理をして限界ギリギリまで引っ張って、夫に憎しみしかなくなっていたらこの形にはできなかったかもしれません。そう思うと、離婚のタイミングはきっとこれでよかったんだと思っています。

(中略)

ナンデ?から開放され、息苦しさがなくなりました。産後のホルモンバランスやコロナ渦のいっときの感情で出した結論ではなかったか?と思うこともありましたが、私は家で笑えるようになりました

こどもたちにぎゅうぎゅう抱きついて笑う時間、幸せだなぁという気持ちが久しぶりに心から湧き上がりました。


問題は「体力」ではない

この「開放感」の正体は、いったい何なのだろう? 私は考え込んでしまいました。

ちょっと申し訳ない気もするのですが、「ナンデ」をひとつずつ検証してみましょう。

  • 朝ごはんをつくる(ナンデ) → 離婚しても労力はあまり減らない
  • 電気点けっぱなし(ナンデ) → 離婚すれば労力は減るかもしれない
  • 子供を寝かしつける(ナンデ) → 離婚しても労力は減らない
  • トイレのタオルを変える(ナンデ) → 離婚しても労力は減らない
  • 洗濯機をまわす(ナンデ) → 離婚しても労力はあまり減らない(物干しの労力は減る)
  • コップ出しっぱなし(ナンデ) → 離婚すれば労力はなくなる
  • 保育園どうする(ナンデ) → 離婚しても労力は減らない

このようにしてみると、離婚することによる「体力」のためのメリットは、

  • 電気を消さずにすむ
  • コップを片付けずにすむ

くらいのものです。

もちろん、ほかにもあるでしょう。

しかし、ここまでは「離婚すれば労力が減る可能性」についてのみ、検討しました。実際には「離婚することで労力が増える可能性」についても、検討しなければなりません。

実は私自身、この「妻側」の目線でよく似たことを検討してみたことがあったので、この気持ちはよくわかる気がするのです。

問題は「体力」ではないのです。

では、問題は何か?

ただし、「体力」について言えば、事態はフィフティ・フィフティより、よくはならないはずです。

しかし事実として「開放感」は強烈なものになるのです。

こどもたちにぎゅうぎゅう抱きついて笑う時間、幸せだなぁという気持ちが久しぶりに心から湧き上がりました。

私はこの記事を「家族問題」について書いているのではありません。私はあくまで「仕事について」書いているのです。

「仕事において」もまったく同じようなことが、あるはずです。問題は労力ではないのです。

問題は、

  • 怒りを覚えながら仕事をする

ということが、どれほど自分を袋小路に追い詰めていくか、というところなのです。

ここのところで

  • 認知リソースの消耗
  • 気力が奪われる
  • 心が削られる

などの表現に逃げて、ごまかしたのでは解決にならないと、私はつねづね考えています。

認知リソースの消耗とは、何を意味するのか? 昨今はやりの言葉でいえば、それには「エビデンス」が足りません。

気力は誰が奪うのか。この場合「夫」とはいいがたい。

夫への申し訳なさ。夫に恨みがあるわけではありません。

「心が削られる」というのも比喩表現です。「形状」をもたない心は「削る」ことができません。それに「心が削られる」というような言い方をすると、周り(とくに同性の親友)が「わかってくれる」ので、深く考えなくてすむという大きなデメリットに見舞われます。

ここは深く考えることが必要だと、少なくとも私は考えたいのです。

  • 朝ごはんをつくる(ナンデ)

これはこれでしかたないかと、思います。

しかし、

  • シゴタノ!を書く(ナンデ)

となったらむしろ、ナンデ?

対価を超えてゆけ

仕事というのは(理想をいえば家事もですが)実行した瞬間から、相手と自分の双方のためになっていると、確信できるもののはずなのです。

もしも私が「他人に仕事をしてもらうだけのヒト」であろうとすると、仕事をしてもらうためには、たとえ少々の余裕があったとしても、

  • そのための対価を必ず払わなければならない
  • 対価を払うことのできないものは、生きていてはならない

というような価値観にとらわれることになるでしょう。これは恐ろしい話です。極端に言えば、人に好かれないか、お金がないなら、即座に死ななければならなくなります。

たとえばいま私が、なにか悪性のウィルスにでも罹患して寝込むようなことになれば、対価があろうとなかろうと、妻は看病してくれます。これを心おきなく妻に期待するには、自分も妻に同じようにした方が、心に無理がありません。

このことを「妻以外の人間」にも可能なかぎり適用範囲を広げた方が、心により大きな余裕が生まれるはずだと思うわけです。

実家の肉親や、妻の実家の両親や、私のTwitterのフォロワーさんなどから「なにか」があれば、対価の有無にかかわらず、時間の有無にもかかわらず、できれば対価についても時間についてもいっさい考えることなく、できるだけのことはするようにします(これまでのところ、はっきり言ってこれは、非常に簡単にやれています)。

そうすることで、「自分」という広く言えば人類の1サンプルは、人になにかを頼まれたら、対価を考えることなく、なにかをするようなものであると、自分の心に刻み込むことができます。

だから他の「人間」にも同じことを期待していいような気持ちが強くなるという話なのです。

もちろんこれは「経験則」であって「ウチュウの法則」などではありませんから、私だけがお人好しでバカを見る可能性がまったくなくなるものではありません。

が、私はあいにくというか幸いにも、「自分」という人間をそこまで立派であると感じていませんから、私程度の「善人」はそこら中にいると安易に期待できてしまいます。

さらに蛇足ですが、現実には、完全に無一文になってのたうち回っていても誰も助けてくれないという真に悲惨な事態になるまでは、「お人好し」で生きていてもさほどの損失はありません。無一文でない限り、「少額の対価」を支払っておけば、たいていのことは何とかなるのが現実だからです。

▼編集後記:
佐々木正悟



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