先週の記事では、文章を書くときにおける、「自問」の重要性を紹介しました。
ふと考えてみると、同じことは文章を読むことにも言えそうです。
つまり、単に情報をインプットするのではなく、「問い」を挟み込んで吸収すること。
よく言われる、「情報を咀嚼する」や「自分の頭で考える」というのも同じことを指しているのかもしれません。
では、実際にはどのような「自問」がありうるでしょうか。
「なぜ、この本を読むのだろうか?」
その本を読む理由です。
もちろん、「読みたいから」で行われる読書があってもいいのですが(むしろ、大半がそれかもしれませんが)、ある種の情報を求めて読書を行う場合、こうした問いによって動機を明確化しておくことには意義があるでしょう。
「何を(どんな情報を)求めて、私はこの本を読むのだろうか」
ということがわかっていれば、不必要な情報を読み飛ばすことも可能です。あるいは、必要な部分だけ拾い読んでも構わないでしょう。
逆にその自問に明確な答えが出てこないなら、できるだけ最初から最後まで行を追った方が良いかもしれません。
「著者は、何が言いたいのだろうか?」
本は何かしらのメッセージを含んでいるものです。
読書の際には、そのメッセージを掴まえたいところです。
そしてもちろん、これはコミュニケーションの基本的な姿勢でもあります。
「相手が何を言うとしているのかなんて関係ない」というコミュニケーションはありません。完全な相互理解には至れなくても、それぞれの心情に近づく姿勢は必要でしょう。
著者がメッセージを投げかけている本においても、同じことが言えます。
もし、中心的なメッセージが掴まえられれば、本の内容のコアとそうでないもの(些末なもの)が区別できるようにもなります。
それは、「効果的」な読書を行う上でも、大切な要素です。
そうしたメッセージは本の中に直接書かれている場合もありますし、ボカした書き方が為されている場合もあります。あるいは、まったく書かれていない場合もあります。
なんにせよ、自分自身でそれについて考えてみるのが大切でしょう。
「これは正しいのだろうか。十分なのだろうか?」
本の中には、事実(データ)や主張が出てくる場合があります。
もちろんそれらは「正しい」のでしょうが、どこかで保留ボタンを押しておく心も必要です。
少なくとも「絶対に正しい」と信じ込み、問いを挟み込まないのは危険ですらあります。
事実はきちんとした裏付けがあるのか。
他に見過ごされているデータはないだろうか。
主張の論理展開は筋が通っているか。
そうしたことを、自分で手や頭を動かして確かめてみることもときには必要でしょう。
もし、そうした行為を一切放棄してしまえば、読書は対話的行為ではなくなってしまいます。
「私は、これについてどう考えるか?」
著者が提示したメッセージや主張を掴まえられたら(あるいはそのように感じられるなら)、それについて自分がどう考えるのかも確認しておきたいところです。
「○○さんが言っていることだから、正しい(あるいはこうあるべき)」
といったことではなく、「自分だったら、どうだろう」と一から考えてみることは、たいへん有用です。
考えてみた結果著者と同じ主張になることもあるでしょう。もしかしたら反対の主張になるかもしれません。
あるいは桂馬ぐらいに斜め前な主張が展開されることもありえます。
どのような結果であっても、そうして考えたことは無駄にはなりません。
さいごに
面白いことに、多くの本には「疑問」がたくさん登場します。
そうした「疑問」に触れていれば、「問う力」もまた磨かれていくでしょう。
上に挙げた例でいえば、「これは正しいのだろうか。十分なのだろうか?」の問いがより厳しくなっていくのです。
「問い」を持ち読書を行う。
そこで「問い」を磨く。
そしてまたあたらしい本を読む。
そうやってグルグルと螺旋を回っていくのも、読書の楽しみなのかもしれません。
▼今週の一冊:
「自己啓発書」を主題に据えてある学術書です。
昨今の「自己啓発書ブーム」は、社会学的な視点でどのように捉えられるのか。一人の物書きとして、面白い視点を得られました。
読む人よりも、書く人、作る人が読むと面白いでしょう。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。