フィリップ・コトラーが、以下の本で「アイデアを記録すること」について書いています。
彼が提示するのは「アイデア保管庫(アーカイブ)」の作り方。
すでに使用したものから、ボツになったものまで、ありとあらゆるアイデアが記録される場所。それがアイデア・アーカイブです。
ボツになったアイデアの行き先
上の本はマーケティングに関するアイデア発想法ですが、分野を限らず発想法を展開していけば、山のようなボツアイデアを生み出すことになります。
本のタイトルを決めるために、100個の候補を考える、なんてことも珍しくありません。一つの決定のために99個のボツ案が生まれてくるのです。
著者らはそうしたボツ案もどこかに記録しておけ、と言います。その理由は三つ。
一つ目の理由は、「未知の領域」を確認できること。ライトノベル風のタイトルはさんざん試した、ということがわかれば、文学小説風のタイトルに挑戦してみよう、といった感じで新しい領域に踏み出すことができます。ここまではやった、ここからはまだ、ということが確認できるわけです。
二つ目の理由は、「開けた蓋をもう一度開けない」ため。いろいろ考えてみたけど、この路線はダメだったということがはっきりしていれば、そこに時間的投資を行うことは避けられます。頭の中だけで考えていると、同じようなところをグルグル回ってしまうもの。記録しておくことで、それが回避できます。
三つ目の理由は、「ナレッジマネジメント」のため。上の本では企業活動でのマーケティング発想法を扱っているので、この用途が挙がってきます。誰かが考えた(そしてボツになった)アイデアが、他の人のインスピレーションのトリガーを引く、ということはよくある事例です。また直接使用されなくても、「なるほど、そういう発想方向があるのか」とお手本として機能することもあります。
ボツとなったアイデアも、記録しておくことで発想の助力になるのです。
保存の方法
では、それをどのように記録しておけばよいのでしょうか。
著者らは「アイデアを体系的に整理して保存する」と書いた上で、次のようにイメージを伝えてくれています。
これまでのアイデアを全てコンピュータ上に保存しておけば、実施ずみのアイデア、保留中のアイデア、一時的に退けられたアイデアをだれもが検索できる。このファイルは革新的なアイデアを生み出すための財産であり、知的資本なのである。
「検索」「共有」という機能を実装するならば、アナログノートでは力不足です。保存先はコンピューター上にならざるを得ないでしょう。
そして、その分類軸は「実施ずみのアイデア」・「保留中のアイデア」・「一時的に退けられたアイデア」といったものになります。これらが混ざってしまうと少々ややこしいですからね。
図解すれば、このような感じになるでしょう。
※連結ずみ=ラテラル・シンキング実行ずみ、ということです。
レベルは、たとえば書籍であれば「タイトル・企画」(レベル1)、「コンテンツ」(レベル2)、「文章表現」(レベル3)といった切り分けになるでしょうか。そのそれぞれについて、アイデアを分類して記録していくわけです。
私の場合
ありがたいことに、現代では上のような細かいフォルダ分けは必要ありません。Evernoteのノートブックとタグを使えば、実にシンプルに管理できます。
レベルをノートブックにして、アイデアの状態をタグで管理することもできますし、アイデアの状態をノートブックにして、レベルをタグ付けすることもできます。
私の場合は、
このようにアイデアの状態をノートブックにしています。
また、ボツになったものではありませんが、アイデアノートの一部をPostachというサービスを使って公開しています。今のところはっきりした効果はわかりませんが、個人間における実験的なナレッジマネジメントの実施、とも言えるでしょう。
※R-in
さいごに
似たような話は拙著『ハイブリッド発想術』にも書きました。そこでは「アイデア地層」という表現を使っています。
アイデアアーカイブにせよ、アイデア地層せよ、記録の積み重ねで大きくなっていくものは確かにあります。記録することのコスト(金銭および手間)が小さくなっている現代では、ボツ案でも気にせず保存できます。それを残していけば、少し先の将来に大きな実りを生み出せるかもしれません。
▼今週の一冊:
「現代において知性はいかにあるべきか」
こう書くとまるで遠い世界の話であるかのような気がしますが、実際それはとても身近な話なのです。
一つには専門的知識を持つ専門家が、いかに振る舞うのかという問題があります。専門家だけで話が済むのは、平坦で穏やかな時代だけ。危機が迫っている時代では、その知識は生活の中で活かされなければいけません。生活者の視点と専門的知識をいかにつなぐのか。大きな問題です。
もう一つ、生活者もただ生活者としてあればよいのか、という問題があります。もちろん、生活者が専門家に肩を並べることは不可能です。しかし、どういう態度で専門家の知識に接するのか、ということならば改善していく余地はあるでしょう。極端な盲信、あるいは恐慌的な批判。どちらも益になるものではありません。市民としての、それなりの態度が求められます。少なくとも、歩み寄る姿勢は必要でしょう。
少し堅めの文体かもしれませんが、身近な話も多く含まれているので、読み進めるのに苦は感じないと思います。
Follow @rashita2
ゲラ待ちの時間を使って、次の企画案を練り込んでいます。紙の本でもいろいろ書きたいし、セルフパブリッシングでも進めたいことが山ほどあります。しかし、自分でやってみるとわかるのですが、「編集」という作業は本当に大変ですね。プロの編集者さんには頭があがりません。ほんとに。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。