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無限がもたらす万能感との別れ

倉下忠憲

メモを取りましょう。

と、私は頻繁に言います。

もちろんそのメモは、伝言や伝聞ではなく「自分の頭に浮かんだもの」のメモ。こうしたものを着々と記録していくことが発想には欠かせません。

が、こうしたメモを残していくと、あまり気がつきたくないことに気づかされます。

自分は、物忘れがひどい。

という事実に。


「なんだ、これだけか」

『知的生産の技術』の中で、梅棹先生が「カード」について以下のようなことを書かれています。

じっさい、カードというものは、つかいだすまでに、あるいはつかいだしてからでも、かなりの心理的な抵抗があるものである。便利なことはわかっていても、なにか、いやな感じがする。たとえば、自分の知識や思想を、カードにしてならべてみると、なんだ、これだけか、という気がして、自尊心をきずつけられるような気がするのである。

「なんだ、これだけか」という感覚は、本棚においても感じます。

これまで自分が読んだ本が棚に並んでいるわけですが、それをみると「これだけ読んだんだ」という実感と共に、「これだけしか読んでいないんだ」という失望感も湧き上がってきます。

大きな書店や図書館から帰ってきたときは、より一層その失望感は強まります。

無限のせかいとのつながりがもたらす万能感

梅棹先生は、さらにこう続けます。

わたしたちにはいつも、無限の世界とのつながりを心のささえにしているようなところがあるらしい。カードは、その幻想を壊してしまうのである。無限にゆたかであるはずの、わたしたちの知識や思想を、貧弱な物量の形にかえて、われわれの目のまえにつきつけてしまうのである。カードをつかうには、有限性に対する恐怖にうちかつだけの、精神の強度が必要である。

「無限の世界とのつながり」とは、少々大げさに感じるかもしれません。でも、これは実に適切な表現です。

メモ帳にメモを残すまで、そしてそれを見返すまで、私たちはあたかも「頭の中に浮かんだことは覚えているし、思い出せる」というような万能感を持っています。その感覚は、まさに無限の世界とつながりです。

しかしメモを見返した瞬間、その世界とのつながりは失われます。

「あっ、これ覚えてないでしょ。ほら、これだって」と残酷な現実が突きつけられ、自分の脳(というか記憶)に対する不信感が高まってきます。そこではもはや(ある種の)自尊心は機能しません。

「重要なことは思い出せる。大切なことは覚えていられる」

と普段なんとなく感じていることが、まるっと否定されてしまうのです。

物語り作りにおいて

物語のプロットを考えているときにも、似たようなことが起きます。

頭の中で考えているときは、あれもこれもとアイデアが浮かんできてきます。できあがる作品は、きっと大作になるだろう、なんて想像が膨らんでくるのです。その間は、楽しいものです。

しかし、それらを一つ一つ書き出して並べてみると、「あれっ?」という事態に直面します。材料不足。プロットの強度が足りない。展開にメリハリがない。ストーリーが物まねの域を出ていない。・・・。

想像上の獲物は大きく、現実の収穫は小さい。幻想は簡単に壊れてしまいます。

タスク管理において

あるいはタスク管理。

だいたいタスク管理の第一歩は「やろうと思うことが多すぎて、リストが破綻する」というところから始まり、徐々に現実的にこなせるだけのリスト作りへと進んでいきます。

「これならばこなせる」と言えるだけの現実的なリストを作り上げたとき、きっとびっくりするでしょう。そのタスク量のあまりの少なさに。

頭の中での「24時間」は無限にも等しい量ですし、そこで発揮される自分のパワーも同様です。その幻想の中では、取るに足らない作業は誤差として消え去り、重要なタスクだけをバンバン片付けていく自分がイメージできます。が、現実はそんな姿をしていません。

本当に重要なタスクをこなせる時間などわずかしかありませんし、時間が進めば疲れも襲いかかってきます。結局、一日で終わらせられるタスクの量など限られたものにならざるを得ません。現実を見れば、幻想が破れ、自分が持っている万能感みたいなものも徐々に薄らいできます。

「なんでもはできない。自分にできることは自分にできることだけ」こういう気づきが支配し始めるのです。シゴタノ!でよく紹介される「タスクシュート」について嫌悪感を感じる人がいるのも納得できます。

さいごに

なんだか悲惨なことばかり書いている気がしますが、別段そういうわけではありません。

メモを書いて、自分が忘れっぽいということに気がつけば、よりメモを活用していけばいいだけの話です。

また、どれだけ頭の中でこねくり回している「大作」も、書いてみなければ作品になることはありません。どれだけ貧弱であろうとも、とりあえず書き上げることで、破棄するなり、手を入れて改善していくといった次の手が打てます。

時間についても同じことです。「いろいろできそうな自分」のイメージはわりと心地よいものですが、それで現実的に何がが前に進むわけではありません。結局のところ、「これだけしかできない自分」というのをスタートラインにするしかないのです。

無限がもたらす万能感と別れを告げ、そこに「存る」ものに安心を感じ、スタートラインにすること。

簡単なことではないのかもしれませんが、そういうのが必要なのではないかと思う次第です。

▼参考文献:

この本を一冊まるまる読み解くだけの本、というのが書けそうな気がします。ともかく、この分野について触れるなら、まっさきに読んでおきたい一冊です。


▼今週の一冊:

会話中に、マクルーハンの名前が出てきたとき、

「ああ、そうそう。そうですね」

と答えながら、「マクルーハンって何言ってた人だっけ・・・」と心の中でつぶやいてしまう人には、まさに最適な一冊。

マクルーハンが「メディア」をどのように理解し、位置づけていたのかを捉えながら、現代のネット・メディア状況を彼の理論から読み解いてみせます。といっても、それはネット・メディア理解についての「正解」というわけではなく、著者が「こういう風に考えられるのではないか」と参考例的に提示しているだけです。

メディアがもたらすもの、について自分で考えてみたいのならば、きっと役立つ考え方を提供してくれることでしょう。


▼編集後記:
倉下忠憲



ゲラ待ちの状態なので、次の企画案を考えています。

紙の企画と共に、次作の電子書籍についてもいろいろアイデアを出しております。単独で進めていくものだけでなく、共作なんかもアリでしょう。あるいは紙と電子での並行な企画なんていうのも面白そうです。こういうのも頭の中で考えているだけではなく、紙に書き出して、実際にできる範囲の事柄から地道に取りかかっていくのが「現実的」な行動ですね。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。