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後悔することがあったら後悔を活かす

佐々木正悟 jMatsuzakiさんという人がいまして、彼との関係は私にとって不思議なもので、お互いの価値観にはかなりのズレがあると思うのですが、そのわりに関係は良好です。

それにときどき、彼の示す価値観には強く惹かれるものがあるのです。

先日、こういうイメージを見ました。

» 後悔しない人生を送るたった1つのコツ | jMatsuzaki



これを見たとき直感的に「そこまで今を燃やしたいとは思わないけど、確かにそうだな」と共感しました。

後悔はすでにしているものの

過去も未来も、少なくとも私にとっては私が想像するものでしかありません。特に未来については、いつまで生きているのかすら、わからないのです。

だから私は、過去を現在に活かすとか、未来のために生きるという考え方に、あまり関心が持てないわけです。「有る」とすればいつだってそれは「現在だ」という気がします。

それにタスクシュート式に綿密に1日の見積もりを出して、どの日でもいいから適当にログを振り返ってみると、

「まったくこの日の自分は、実に賢明だった。私の肉体のようなものをこの日に放り込まれたら誰だって、こういうふうにしか、生きようがなかっただろう」

としか思わないのです。だから私はPDCAには興味がないし「レビュー」というものにもあまり真剣に取り組む気がしないのです。

「この日」に改善の余地があると思うのは、この日を生きていないからだ。
「もっとできた」とは、私よりもっと有能だったり健康だったりする者の思うことだ。

しかし、後悔というのはそれでもするものです。たとえば私は自分の日本の大学時代を振り返ると、後悔の念を覚えます。

「もっと・・・」

正直に考えを進めてみると、「もっとなんだった」と言うのか、よく解りません。巷で言われるように「もっと勉強すればよかった」と思っているのだろうか? でも、本音を言えば、さっきの思考方式のことを思い出してみると、「学生時代の自分なら、もう一度やっても、もっと勉強なんか、しないだろう」と思わなくもありません。

「もっと遊べばよかった」とは、少し思います。が、よくよく考えれば、遊んでばかりいたのです。だから実際のところ、あれ以上遊ぶことができたかどうか、私の体力では疑わしい。

努力してもう少し思い出を深めてみます。すると、思いつくのは「もう少し遊んでいたことをきちんと記録に残すべきだった」と思うのです。

そしてこれは、よくよく考えてもやはりそう思うし、またそれはできただろうという気がします(とは言え、私の学生時代にスマホどころか軽量のデジカメすらなかったという事情を勘案すると、今している後悔は安易だという気もしますが)。

冒頭のjMatsuzakiさんのエントリを読み直してみても、今後、後悔のない人生が生きられるという気はしません。しかし、後悔を今に活かすことはできます。今やっていることをやっぱり、もっと記録に残すべきなのです。今からでも(むしろ今からなら)できることです。

将来、後悔をしないためにも。