前回は、ニクラス・ルーマンのカード法を紹介する本に言及しましたが、忘れてならないのが我らが梅棹忠夫です。
日本でも長く人気のある彼の『知的生産の技術』は、カード法を主眼としているのはいまさら解説するまでもないでしょう。
では、現代のデジタルノート事情から彼の技法を検討するとどうなるでしょうか。いくつかのポイントが見えてきます。
- カード法
- こざね法
- フォーマット志向
カード法
梅棹のカード法は、端的に言えば「豆論文蓄積法」です。論文ほどのボリュームはなく、かといって走り書きメモのような自分だけがわかる(もっと言えば書いた瞬間の自分だけがわかる)ものでもない、その中間的な「文章」を情報カードに書き残していくのが、基本となるコンセプトです。それ以外に細かいルールはほとんどありません。
- 一枚一事
- 分類せず配列する
- カードをくる
基本的にはこれだけです。
まず「一枚一事」ですが、カード一枚には「一つのこと」だけを書きます。これはあらゆるカード法に通じるコンセプトと言えるでしょう。それが徹底されることで、情報が「原子化」して、他の情報との組み合わせを可能にしてくれます。それだけでなく、自分が考えている対象についてクリアになる効果もあります。
さらに梅棹はこうしたカードにタイトルをつけることを提案しています。カード一枚には「一事」が書かれるのですから、その「一事とは何か」をタイトルで示すのです。
この限られた決めごとだけを守ってカードを書き続けていくこと。それが彼の知的生産活動の基盤であったと自身で述べられています。
「なんだ、簡単そうだな」と思われたでしょう。私もこの本を最初に呼んだときはそう思いました。これだったら自分でもやっていける、という感覚がたしかにあったのです。しかし、実態は大違いだったのですが、それはまた別の回で書きましょう。
次に、「分類せず配列する」です。簡単に言えば、先にカテゴリーを設けて、そこにカードを配属させていくような「整理」をしない、ということになります。なぜそれをするとダメなのかと言えば、情報の意外なつながりの発見が阻害されるからです。カードを「原子化」することで、さまざまな接続が可能になったのですから、その可能性を自ら抑制する必要はありません。硬く分類するのではなく、ゆるく並べておくことで、つながりの可能性が担保されるわけです。
とは言え、カードを配列していたら、カードが勝手に歩き出して、「僕、このカードとつながっているよ!」と教えてくれるわけではありません。そのつながりは、カードの制作者が自分で見つける必要があります。その際に重要なのが「カードをくること」です。自分で書いたカードを、後から自分でさまざまに読み返すわけですね。
ここで「豆論文」が効いてきます。他の人にわかるように書かれた文章なので、時間が経った自分が読んでもその内容がわかりますし、しっかりタイトルがついているのでそこだけを読んで高速にサーチしていくことができます。この二つを満たしていない「書き留め」は、見返し・読み返しにまったく向きません。過去の偉人の日記を読解しようとしている学者のような意欲がないかぎりは、読み返しは続かないでしょう。だからこそ、きちんと豆論文を書いておくわけです。
功利主義的に考えても良いでしょう。たとえば、私は著者として本を書き、その本が少しでも読みやすくなるように原稿を修正します。もちろんその作業は結構な手間なのですが、そうすることによって将来その本を読む人の「手間」が解消されるのだとしたら、総合的に「手間」はペイできます(あるいは、そのように考えることができます)。
同様に、豆論文を書くときの自分が少しだけ苦労する代わりに、それ以降の、自分の、すべての、その文章を読む手間が削減されるのです。
また、功利主義的な話を持ち出さなくても、「他の人に読めるような文章で書く」という行為自体が、自分の考えをクリアにしてくれるので、たとえ一度も読み返すことがなくても、「読める文章」で書くこと自体は肯定されるでしょう。
ともかく、自分で書いたカードをおりおりに読み返し、過去の自分の考えと「対話」すること。そこから新しい考えを生み出したり、既存の考えに構造的なつながりを見出したりすること。それが梅棹のカード法のコンセプトです。ルーマンのカード法と驚くほど似通っているのが面白いですね。
こざね法
『知的生産の技術』の中で梅棹は、上記のような情報カードを使った知識の蓄積法とは別のアナログの手法を紹介しています。それが「こざね法」です。
自分がこれから書こうとしている原稿について、自分が書きたいこと、書くべきことを小さな紙辺に一つずつ書き出していき、それらを操作しながら「構想」を立てる、というのがこざね法です。
紙を使うこと、一枚一事とすること、並び替えることなどの共通点を持つので、カード法と混在して語られることの多いこざね法ですが、この二つはまったく違っています。前者が、知のネットワークを広げる目的があるのに対して、後者が、アウトラインを作ることが目的になっている点が一番の違いでしょう。
さらに、カード法では「他の人がわかるように書く」が意識されていますが、こざね法では走り書きのフレーズだけが紙片に書き込まれているので、他の人が見ても内容はさっぱりわかりません。それも当然です。こざね法では「今書こうとしている原稿」という全体のコンセプト/コンテキストがあり、その上にこざねの記述が乗るからです。つまり、短いフレーズであっても、自分がそこで何を書こうとしているのかは思い出せるのです。
また、それはプロジェクトを進める際に作られるものであり、「数年後の自分がたまたま一枚取り出して読み返す」のような使われ方は想定されていません。ある期間内で「構想」を立てるのがこざね法の役割です。
よって、こざね法では「詳細」の情報は不要です。あくまで話の流れを検討するに足りる視覚的情報が提供されれば良いのです。
この「カード法」と「こざね法」の違いが、デジタルノートではやっかいになってきます。その二つに明確な違いが感じられないからです(なぜなら紙面サイズがないから)。
しかしながら、知のネットワークを広げていく行為と、何かしらのアウトラインを立てることは、まったく違った知的営為です。梅棹は『知的生産の技術』において、「将来的にカードとこざねが一緒になったら便利」などとは記述していません。そういうことが起こるだろうという想像すらなかった気がします。梅棹の中で、明確にこの二つが別のものだったからでしょう。
その違いは、現代においてデジタルノートを使う上でも意識しておきたいところです。
ちなみに、デジタルツールにおける「アウトライン」の作り方は、以下の本が極めて役立ちます。
フォーマット志向
最後にもう一点だけ確認しておくと、『知的生産の技術』はその全体を通してフォーマット志向です。たとえば、新聞などの切り抜きを規格化して保存すること、手紙の書き方を形式化すること、あるいは書類を「一件書類」として単一ファイルにまとめておくことなどがあります。そもそも「自分の着想を情報カードに一枚一事で書き留める」という行為も、かなりの程度フォーマット志向と言えるでしょう。
こうしたフォーマット志向は、まったくもって(アナログではなく)デジタル向きの話です。情報を単一の規格にまとめてそろえておくことは、デジタルの真骨頂であるとも言えるでしょう。たとえば、Evernoteであれば、Web記事であろうと、自分の着想であろうと、転送されてきた電子メールであろうと、「ノート」という共通規格にまとめてくれます。それが飛躍的に「操作性」を高めてくれることは間違いありません。
こうした点は、デジタルノートでこそ実現されると考えておいて間違いはありません。
さいごに
『知的生産の技術』を通して読んでみると、梅棹は「情報の規格を揃えておくと処理がやりやすくなる」ことをかなり感覚的に体得されていたように見受けられます。もし現代に生きておられたなら、DXの強力な推進者になっていたかもしれません。
事務的な作業は極力楽にして、それ以外の作業に時間を注ぐこと。ある意味でライフハッカーやプログラマーのマインドセットです。
当然そのマインドセットは、デジタルノートを使う上でも強力なのですが、ここにもちょっとした罠が潜んでいます。それについてはまた次回検討しましょう。
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そろそろ年末です。この連載も一応「終わり」に向かって進んでおります。来年はまた別のテーマで連載を書く予定です(予定は未定)。ここまで書いてきたデジタルノートについてもまたまとめておきたいですね。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。