前回では、考えをカードに書き出してそれをグループ化していく、というKJ法の中心的なプロセスを紹介しました。
もしかしたら、このグループ化が一番難しい作業と言えるかもしれません。ある程度慣れていないと違和感を感じることもあるでしょう。また、進め方について勘違いしている場合もあります。
今回は、グループ化を進める手順を確認してみましょう。
大まかには
- カードを拡げる
- 吟味する
- グループを作る
- グループ名を見出す
この4つです。
カードを並べ、それを吟味する
一番最初の手順は、カードを拡げることです。机の上(あるいはそれに準じる広いスペース)にカードを並べていきます。一応確認しておきますが、この場合のカードは、情報カードでも、その辺の紙切れでも、付箋でも問題ありません。一つ一つが独立して操作できるものであればなんでもOKです。
そうして並べたカードを「吟味」していきます。『発想法』では以下の通り。
そして拡げ終わると、その紙片を、あわてず騒がず、端からでも真ん中からでも読んでいく。読むというよりも眺めてゆけばよいのである。
カードを使う目的は、思い付いた考えを「一覧」したり「吟味」することです。
脳を補助する
人の作業記憶はそれほど大きな容量を持っていません。
なので、何かを思い付きながら、以前思いついたことも同時に考慮し、それぞれを操作していく、という作業を行うのはとても困難です。できる人もいるのかもしれませんが、多くの人に取っては困難な作業と言えるでしょう。
それを補うのがカードと机(空間的スペース)です。つまり、自分の作業記憶の容量を(擬似的にではあるにせよ)カードと机を使うことによって拡張させているわけです。
このことを逆からみれば、結局考えているのは自分自身の頭ということです。カードは作業記憶の補助をしているだけで、カードからアイデアが生まれてくるわけではありません。当たり前のようですが、この点は確認しておいた方がよいでしょう。
これは、まったく同じカード群を手渡されても、人によって作るグループが異なってくることで簡単にわかります。おそらく同じ人でも作った時期が違えば出来上がるグループも違ってくるでしょう。そういう意味ではこのプロセスの進め方はまったく機械的ではありません。
組み合わせを生むもの
カードを吟味していると、「これらは似たような内容だな」となんとなく感じるものが見つけられます。これを物理的に集めていってグループを作るのが次の作業です。
『発想法』では、
やがて紙切れ同士のあいだで、その内容の上でお互いに親近感を覚える紙きれ同士が目についてくるだろう。「この紙きれとあの紙きれの内容は同じだ」とか、「非常に近いな」と感ずるもの同士が目にとまる。そう気がつけば、その紙きれ同士をどちらかの一カ所に集めるのである。
と紹介されています。
「親近感を覚える」というのは、あまり「科学的な方法」とは呼べないかもしれません。少なくとも再現性はなさそうです。いわば直感力の世界です。
こうした作業について野口悠紀雄氏の『「超」発想法』では、
KJ法は、こうした直感力を排し、可能な組み合わせを機械的に点検しようとする。
と書かれています。この指摘は私がKJ法から受ける印象とは異なっています。
100枚のカードがあったとして、1枚のカードを取り上げ、残りの99枚と「これは関係性があるのか、ないのか」をチェックしていくような作業は行いません。組み合わせを作っているのは、「なんとなく近い」「親近感を覚える」といった、その人の感性です。これを機械的に点検している、と表現するのは多少的外れではないでしょうか。
直感力を使う、というのは少々頼りない感じもしますが、逆からみればその人の「個性」が発揮されるプロセスの進め方と言えるかもしれません。
頭ごなしの分類はしない
グループ化において、ありがちな問題が「あらかじめの分類」です。
もともと、これらのカードは事前のブレストにおいて、一つのテーマから連想された「思考」たちです。それら一つ一つがまったくなんの共通点もない、ということは考えられません。それぞれの要素には近いもの、遠いもの、があるはずです。そういう概念上の関係を空間的配置で表現していくというのが、このカードの移動作業です。
しかしながら、どうしても大量のカード群を目にすると、「まず資料に関するものをこちらにあつめて」「他分野に関することはこちら」「将来の展望に関わることは・・・」といった感じで、あらかじめ想定できる分類を使ってカードを仕分けしたくなります。
内容の関連性による整理ではなく、情報の形式による整理です。
こうした元々想定しうる大きな分類からカードを仕分けしていく作業を、川喜田氏はヒットラーやスターリンの考え方をたとえにあげて批判しています。そのたとえは少々大げさだとしても、私なりに言い換えれば「頭ごなしな分類」とは呼べそうです。
もちろんその方法論がまったく無意味というわけではありません。しかし、その手法を使うのならばKJ法的アプローチではなく、マトリックス的アプローチを使った方がはるかに早く話が進むでしょう。わざわざ、それぞれの要素を個別に書き出す必要はありません。
個別の要素に書き出すのは、今まで存在しなかった分類を立ち上げるためです。既存の分類軸だけで話が済むなら、KJ法を使う必要はないでしょう。
個々の要素を頭ごなしには分類しない。むしろ個々の要素の関連性から立ち上がってくる分類を作り出す。それがKJ法の重要なポイントです。
さいごに
今回はグループ化について紹介してみました。最後の部分の「グループ名を見出す」は、また別の要素を含んでいるので次の回にでも紹介します。
最後に、今回のまとめとして簡単にポイントを整理しておきます。
- カードと机が作業記憶の補助になる
- 組み合わせを作るのは直感力
- 既存の分類に縛られない
この3つです。これはもちろんKJ法以外の発想法でも重要な要素になってきます。
▼参考文献:
本文では多少否定的な意見を書きましたが、本の内容は発想において必要なことがうまくまとめられています。
▼関連エントリー:
・構造化はブレストのあとで ~KJ法のエッセンス~
・KJ法がもたらすもの、あるいは凡人のための発想法
▼今週の一冊:
最近読んだ本の中で、一番赤ペンが活躍した本です。内田樹氏の講演が6つ収録されています。
学びとは、教育とは、ということについて深く考えさせられました。章題に「教育に等価交換はいらない」というのがありますが、たしかにビジネスライクに考えてしまうと失われてしまうものってあるんじゃないかと思います。
教育の最終的なアウトカムは計量不能なんです。教育の効果は数値化できない。
それを無理矢理数値化したり、あるいは数字で扱えるものだけを判断基準にしてしまえば、何かしらの不具合が出てきてもおかしくはありません。もう、出てきているのかもしれませんが。
ともあれ、面白い本です。
Follow @rashita2
KJ法って最初やってみると、漠然とした不安感に陥るんですよね。こんな大量の情報がまったく整理されてない状態なんて・・・、みたいな。
しかしながら、少しずつグループ化を進めて行くと、徐々に「なんとかなっていく」感覚が得られます。ある程度までくれば自信が付いてきます。で、結局最終的にはきちんとした構造が生まれる。たぶん、最初の不安感を乗り越えられるかどうか、というのが一つの肝かもしれません。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。
PDF: 226ページ