だいたい一年前のエントリーで「知的生産の定義とそこから見えてくる「心がけ」」という記事を書きました。内容を要約すれば知的生産とは「かんがえることによる生産」だ、という事です。
では、その技術、つまり「かんがえることによる生産」のための技術とは一体何を意味するものなのでしょうか。
今回は「知的生産の技術」とは何なのかについて考えてみたいと思います。
定義をもう一度
先ほどのエントリー内では、知的生産の定義を以下の3つのように提示しました。
- 頭を働かせて行う行為
- あたらしいことがら(情報)をあつかう
- 他の人に理解できる形でアウトプットを行う
これが「知的生産」という行為の定義です。人間の脳を使って、情報を加工し、それを他者に向けて提出する。こういった行為が「知的生産」です。
では、これに関係する「技術」とは一体どのようなものになるのでしょうか。
それについて考える前に「知的」という言葉についてもう少しつっこんでみたいと思います。
「知的」とは?
日本語で「知的」という言葉を聞くと、「頭が良い」というイメージが湧いてきます。「あの人は知的な人だ」というような使い方ですね。しかしながら、「知的生産」という言葉で使われている「知的」にそういったイメージは込められていません。
この言葉の生みの親である梅棹先生の「知的生産の技術」を読めばそれがはっきりと提示されています。
梅棹氏は「物作り」を意味する「物的生産」に対する形で「知的生産」という言葉を用いています。そこには「頭が良い人」といったイメージは含まれていません。単純に「物」と「情報」の対比です。工業産業で成長してきた経済が、次なる段階として情報産業へと移行する。その歴史の流れの中で、「知的生産」という言葉が生み出されたわけです。
しかしながら、最近は「知的生産」という言葉が一人歩きして、何かすごい事、頭の良い人だけが行えるもの、といったイメージが存在しているのではないでしょうか。そのようなイメージのせいで「知的生産」から距離を置いたり、あるいは「知的生産の技術」に過大な期待をしてしまうのは残念なことです。
「知的生産の技術」とは?
「知的」という言葉を改めて捉え直してみると、「知的生産の技術」は「情報を扱うための技術」と言い換えることができると思います。
この技術は「知的生産」という言葉から連想されやすい「高い知性」とはあまり関係の無いものです。もちろんそういったものを持っていた方が良いとは思いますが、絶対に必要というわけでもありません。
おそらく「知的生産の技術」よりは「情報生産の技術」のほうがよりフラットにこの言葉が持っているイメージを伝えることができるのではないかと思います。情報をいかに仕入れ、いかに加工し、いかにアウトプットするのか。そういった一連の流れにおける技術が「知的生産の技術」です。その意味では個々のテクニックよりも、自分なりの情報ワークフローを確立していくこと事が重要だと思います。
さいごに
これは頭が良くなければできないというものでもありませんし、逆に頭が良くてもできるとは限らないものです。
高度情報化社会の現在では、情報を扱う技術がなければ簡単に情報洪水に押し流されてしまいます。そういった意味で現代においては「知的生産の技術」は何ら特別なものではないと思います。
▼参考文献:
この連載に興味をお持ちで、未読の方は是非。Evernoteを知的生産に活用する際にも、大きな知見が得られると思います。
梅棹氏への最後のインタビュー。この本で「知的生産は情報の技術」と語られています。
▼関連エントリー:
▼今週の一冊:
『まぐれ』、『ブラックスワン』のタレブの新刊です。『ブラックスワン』を補強するような内容になっています。
『ブラックスワン』を読んで、いまいち理解しきれなかった方むけの本かもしれません。もちろん普通に読んでも面白いです。この本を読めば。タレブの主張がもうすこしはっきりした形で見えてくると思います。
経済のお話としても、人間の認識や知性の限界性の話としても捉えることができる内容です。職業が経済学者の人は、かなりバカにされることを覚悟してお読みください。
いよいよ年末が迫ってまいりました。
年末は落ち着いて読書・・・というわけにはいかない環境ですが、年始ぐらいにはじっくり腰を据えて読書してみたいところです。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。