小学生の頃に読んだ「ドラえもん」の次のエピソードが妙に印象に残っています。
なぜかのび太君の宿題を肩代わりさせられることになったドラえもんが、限られた時間でその宿題を終えるために、タイムマシンを使って、2時間後のドラえもん、4時間後のドラえもん、6時間後のドラえもん、8時間後のドラえもんという4人のドラえもんを未来から無理矢理連れてきて、5人で手分けをして宿題に取り組むのです。
幼心に、なんと素晴らしいアイデアなんだろう、と感銘を受けたのですが、続きを読み進めていくうちにげんなりしてしまいました。
現実からは逃げられない
なぜなら、5人がかりの共同作業を始めて2時間たつと、最初のドラえもんは「2時間後のドラえもん」として、「2時間前のドラえもん」に強引に過去の、すなわち2時間前の世界に連れ去られてしまうからです。
以後、2時間ごとに同じことが繰り返されます。
話を単純化して、宿題が5人のドラえもんをもってして2時間で終わると考えれば、この宿題はドラえもんの作業能力では“10ドラ時間”という見積もりになります(時間単価はいくらかはわかりませんが)。
最初のドラえもんは知恵を使って5人のドラえもんを集めることで確かに2時間で宿題をやりおおせることができましたが、これは単に時間の前借りをしたに過ぎません。
借りた時間は返さなければなりませんから、結局のところ、2時間の作業を5セット、合計10時間ぶっ通しで宿題をやり続けることになります。
タイムマシンなど使わずに、最初から1人で10時間をかけて宿題に取り組むのと何ら変わらないのです。
このエピソードは、「時は取り分を取っていく」という真理にはあらがえないことを象徴的に描いているわけです。
仕事においても、ついつい先送りしてしまうのは、「2時間後のドラえもん」に過剰な期待を抱くのと同じことです。「自分がやるしかない」という現実からは逃れられないのです。
このエピソードから学べることは?
このエピソードから学べることは、以下の2つです。
- 1.未来の自分に期待をしよう
- 2.過去の自分からの期待を裏切らないようにしよう
未来の自分に期待をすることは誰しもが実践していることでしょう。スケジュールを立てる行為そのものが、「未来の自分」に期待をしていることになるからです。大切なのは2つめの過去の自分からの期待を裏切らないことです。具体的には、スケジュール通りに行動することです。
「自分はスケジュール通りに行動できる」という実績ができれば、それが自信となり、安心して「未来の自分」を信じることができるようになります。
こうして同じ「自分」ではありますが、「2人の自分」が手を取り合って、確実に前に進むことができる、という現実を生み出すことができます。
過去の自分からの期待を裏切らないようにするためには、「未来の自分」に対して過度の期待をしないことです。2時間後の自分も10時間後の自分も今の自分とさほど変わらないものですから、例えば2時間後には仕事の効率が2倍になっている、と期待するのは無理があるでしょう。
そのようなつもりはなくても、例えば「今日はできなかったけど、一晩寝て明日に集中してやれば終わるだろう」という期待を抱くことは、結果として「未来の自分」を過大評価していることになります。過剰な期待は「裏切り」という形で打ち砕かれることになることが少なくありませんから、これを防ぐためにも「今の自分」と「未来の自分」とが協調して動けるように、仲良く手を取り合いたいものです。
そういえば、村上春樹の小説に「期待をするから失望が生じるのだ」というフレーズが出てきます。過剰な期待は応えるのがストレスになるということはありそうです。
買い物をすませてしまうと手近なレストランの駐車場に車を入れ、ビールと海老のサラダとオニオン・リングを注文して一人で黙々と食べた。
海老は冷えすぎていて、オニオン・リングは少しふやけていた。
レストランの中をぐるりと見回してみたが、ウェイトレスをつかまえて苦情を言ったり床に皿を叩きつけている客の姿は見あたらなかったので、私も文句を言わすに全部食べることにした。
期待をするから失望が生じるのだ。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(上)』p.125より
「ウェイトレスをつかまえて苦情を言ったり床に皿を叩きつけている客」とは、「過去の自分」と「未来の自分」がお互いの期待を巡ってせめぎ合う、そのまっただ中にある「今の自分」の姿と言えるでしょう。
到底応えられないような期待は、自社の支払い能力をはるかに超えた手形を発行するようなもので、焦げ付くことが目に見えているはずです。
そういう意味では、かかる時間を正直ベースで見積もり、これをスケジュールに落とすという“現金支払い”が、最もストレスフリーで安定した取引となるでしょう。
同じ追い込むのなら、「未来の自分」よりもまず「今の自分」。「今の自分」を追い込むことは「過去の自分」からの期待に応えるためであり、「未来の自分」を追い込むことは、「今の自分」が楽をしたいためと言えます。
後者の姿勢は、冒頭のドラえもんの発想と一致します。ただし、タイムマシンがあるおかげで「今のドラえもん」と「過去のドラえもん」が2時間ごとに入れ替わって“メビウスの輪”状態になるところがややこしい、ということはありますが…。
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例えば、お金については、今日はこれぐらいのお金を使ったが、今の残高なら明日もまだ十分足りるだろう、という予測しても、さほど外れることはありません。
でも、時間になると、今日はこれぐらいの時間がかかったが、予定を見る限りは明日も余裕をもって対応できるだろう、といった予測はよく外れるのです。
これは、未来の時間の価値を安く見積もっているからだと考えられます。それゆえ、当日になってみると「全然時間が足りないじゃん!」という現実を突きつけられるわけです。
ドラッカーは、このような「時間」に対して「愛情」という言葉を使っています。
あらゆる仕事が時間の中で行われ、時間を費やす。しかるに、ほとんどの人が、この代替できない必要不可欠な資源を当たり前のように扱う。おそらく、時間に対する愛情ある配慮ほど、成果をあげている人を際立たせるものはない。しかし一般に、人は時間を管理する用意ができていない。
本来「愛情」とは、見返りを期待しないものです。そう考えると、ドラッカーがこの言葉を使う理由も何となくわかるような気がします。
ということで、現在・過去・未来の3つの視点ごとに捨てることの効用が書かれています。
1.現在「毎日の生活の中であなたのエネルギーを奪うものを捨てる」
2.過去「過去の思い入れを捨てる」
3.未来「未来への期待と不安を捨てる」現在については、知らないうちに溜まっていくあれこれ(生活必需品でないもの全般)。
過去については、過去の栄光や(「打ち切り」になった)思い出の品々。
未来については、未来への期待、「いつかやろう」と思っているあれこれ。
そして、割と忘れがちなことが、過去の自分というのは他人である、というポイント。
そのために自分の外に記録するのでしょう。
記憶があてにならない以上、その日に自分が考えたことはその日のうちに外部記憶媒体(例えばブログ)に退避させておく。
そうすれば、自分が築いてきた未完成の“砦”を他でもない自分があとから見上げながら、その進捗状況を確認することができます。
例えば、時間を経て記録を読み返すことでそこに当時は気づかなかったひらめきが見出されるかも知れません。
波乗りは、まったく目標も見通しも持たずに漫然と生きるということではなく、その時々の“変化”に呼応しながら常に動き続けるということなのではないかと思うのです。
もちろん、瞬間瞬間には「次にどう動くか」という目標設定と実行が小刻みに繰り返されているわけで、まったく目標を立てないわけではないのですが、客観的に見ると波のなすがままに動いている(動かされている)ように見えます。
でも、それが現実のような気もします。