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知的生産の技術書093~096『読んでいない本について堂々と語る本』『積読こそが完全な読書術である』『読書会の教室』『難しい本を読むためには』


倉下忠憲今回は093から096を。駆け込みになっているので記事タイトルが長くなっているのはご容赦ください。カテゴリとしては「読書」になるかもしれませんが「読書術」とは違った内容を扱う4冊です。

『読んでいない本について堂々と語る本』

バイヤール・ピエールによる本書は、タイトルが示す通り「本について語る」ための本です。本を読まなくても、その本について語ることができるし、なんならその本を読まないほうが良いことすらある、と挑発的な内容になっています。

そうした内容が提起するのは、「そもそも本を読むとはどういう行為なのか?」「本を読み終えたと言えるのはどういう状態か?」という問いです。これらの問いは、真剣に考えてみるとなかなか難しいことに気がつきます。

たとえば「難しい本は読めないよ」という発言があったとして、そこには「簡単な本は読める」という前提が見えるわけですが、はたして頭から最後まで文章を読み通せたとして、それは「その本を読めた」と言えるのでしょうか。まるっきりその内容を理解していなくても? あるいは誤った理解をしていても? はたまた一週間後にはすっかりその内容を忘れていたとしても?

ある本について語ろうとするとき、その本を読了する必要はたしかにありません。言及する文脈や位置する分野において、その本がどのように位置づけられているかを知るだけで十分です。だから単にその本について語ることだけが目的なら本を熟読する必要はないのです。それこそ要約や概略を摂取するだけで十分でしょう。いわゆる「ファスト教養」的なアプローチは、案外に広く使われているのです。

だったら本を読むことそのものが無意味になるのか、というとそういうわけではありません。本を読む目的が、その本について言及することだけならば読む必要はないだけであって、それ以外が目的ならばやはり本を読むことは有用なのです。バイヤールはそこまで踏み込んでは書いていませんが、本書が提起する問題はそういう話に接続しています。

『積読こそが完全な読書術である』

本書もタイトルからして挑発的です。これまで行われてきたさまざまな読書についての語りを受けながら、現代的な「積読」の意義を提唱する意欲的な一冊になっています。

おおよそ本を日常的に読まない人ほど「積読」を軽視したり、侮蔑のまなざしを投げたりしますが、積読は避けがたいものです。一冊本を読めば、二冊三冊と別の本が読みたくなる。本のセレクトを間違えていなければ、おおよそそういう傾向が生まれるものです。だから積読は仕方がないものとして受け入れる、という姿勢を多くの読書人は持っているでしょう。

本書はよりラディカルに「積読」の意義を主張します。「積読」であっても意味はあるし、「積読」で十分なこともあるし、「積読」するからこその意味がある、と積極的に意義を肯定するのです。「積む」行為の転回がそこでは行われています。

実際次に読みたい本が何冊もあるのは幸せなことでしょう。特に昨今の「アテンション・エコノミー」の中にあって、「自分はこれらを読むから、そういう情報は別にいいです」と注意を一つの方向に維持できるのは好ましいことだと言えます。著者はそうした枠組みの中で行われる知的営為(あるいはその枠組みそのもの)を「ビオトープ」と表現していますが、まさにそれこそが現代で知的生産活動を続けていく上で必要なものでしょう。

自分の関心事のリストを作り、そこで当たる文献をセットアップして、粛々とそれに向き合っていくこと。情報の「防波堤」としてこれ以上のものはありません。本書はそうした全体的な心構えを考えさせてくれます。

『読書会の教室』

読書について、もう一つ避けがたく存在しているトピックが「読書会」です。「本を読むこと」の効用を上げたいならば、間違いなく実施・参加した方がよいものなのですが、その実施が簡単ではありません。

読書ならば、自分と本があればそれだけで成立しますが、読書会となると参加者と会場が必要です。当然、スケジュールを調整したり、場の雰囲気を整えたり、進行役としてファシリテーションしたりと、他にもやることがたくさん増えます。読書という行為の身軽さに比べると億劫さを感じないではいられません。

それでも、と私は思います。読書は孤独で成立する行為だからこそ、ときにはその成果を持ち寄ることが大切です。ビオトープだってたまには風を入れ替え、新しい水を入れる必要があります。そうしないと徐々に環境が死んでいくことだって考えられます。

あくまで自主性に基づいたものである、ということが原則ではあるものの、その原則の上に立つ読書会はなんであれ有意義なものになるでしょう。それくらい私たちは、自分一人で読める本に限りがあるのです。難しい本でなくてもです。

『難しい本を読むためには』

もちろん、難しい本を読むのは簡単ではありません。少なくともストレートに「こうすれば、読める」のようなノウハウは提示できないでしょう。よって本書のタイトルも「難しい本を読む技術」とはなっていません。技術化できるようなものではない、という認識が著者にはあるからです。

だからといって無手・無策で立ち向かえばよいというものでもありません。有用性の高い方向性というのはたしかにあります。著者の言葉を借りれば、成功法はないが正攻法はあるのです。

それが実際にどのようなものなのかは本書を直接当たっていただくのが一番ですが、もしこの本について語ることが目的の人であればそれは「部分と全体の行ったり来たり」であると添えておきましょう。ただこれだけのことを知っているだけでもうこの本を話題に上げることは可能となります。わざわざ読む必要はありません。

逆に言えば、わざわざ読むのならばそれ以上のものを得たいところです。たぶんそれは知識そのものではなく、何かを読むという体験であり、そこから生まれる経験なのでしょう。

知的生産の技術書100選 連載一覧

▼編集後記:
倉下忠憲


なんとか回に収めようと一回で取り上げる本の数が増えておりますが、あともう少しなのでご辛抱ください。ともあれまずは最後まで書き上げましょう。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中