今回は082と083を。戸田山和久さんによる「考える」ための二冊です。
『教養の書』
タイトル通り「教養」についての本です。
まず本書では、教養とは何かを考えます。知識や本、人生や社会について考えることを通して、教養の条件とその定義を検討します。最終的に、教養は以下のようにまとめられます。
これまでに教養の必要条件としてあぶり出した、豊かな知識、知識の体系性、大きな座標系、自己相対化、闊達さ、社会の担い手であり道徳の主体であることの自覚等々はすべて、公共圏における話し合いに参加して、よりよい解決策をみんなで考え出したり、より望ましい社会のあり方を決めるのに必要な素養・能力に他ならない。
正直この部分だけを読んで暗記しても意味はありません。ここに至るまでの著者の思考のプロセスを追いかけることが肝要です。
と、注意点を踏まえた上で続けると、ではそのような教養を涵養するための「敵」はなんだろうかと、話は展開していきます。「怠惰と恐怖心」「友だち地獄」「パターナリズム」「イドラ」などが挙げられるのですが、ここで注目したいのはイドラです。人間の先入的謬見を意味するこの言葉は、「知は力なり」と述べたフランシス・ベーコンが提示した概念で、以下の四つのイドラがあると整理しています。
- 種族のイドラ
- 洞窟のイドラ
- 市場のイドラ
- 劇場のイドラ
種族のイドラは、人間が人間であることによって生じる知覚の偏りで、認知バイアスと人間による環世界的な知覚の両方が含意されています。
洞窟のイドラは、個人が持つ偏向のことで、それぞれの人が積んできた経験や得てきた知識によって生じるとされます。
市場のイドラは、コミュニケーションの場と、その場で交わされる言葉によって生じる偏りのことで、ベーコンはこれが最も厄介だと述べています。インターネットの閉じたコミュニティーで知性がどのように発揮されているのかを考えれば、ベーコンの指摘は正鵠を射ていると言えるでしょう。
最後の劇場のイドラはかなり挑発的で、戸田山のまとめによれば「学問や研究の装いをしたものを鵜呑みにすることから生じる誤解と混乱」となります。これもまたインターネットが普及した現代ではよく見受けられる風景です。
本書ではこれらのイドラについてさらに検討されていくのですが、まずこのような性質や現象、あるいは文化や制度といったものが、私たちの思考に影響を与えている、という点を理解しておくことが大切でしょう。
社会の中で生きる人の思考は、無垢で白紙の状態ではなく、すでに一定方向に偏っています。仮にそれらを取っ払ったとしても、人間が人間であることによって生じる偏りまでは消せません。その意味で、人の思考は無謬性を保証されてはいないのです。
だからこそ、私たちは単に考えるだけでなく、よく考える必要があるわけですし、一度考えて終わりにするのではなく、考え続ける必要もあるわけです。
『思考の教室』
本書もタイトル通り「思考」についての本です。「考える」について考えることから始まり、考えるとはどういうことか、考えるためには何が必要なのかが検討されていきます。重要な点は、パート2のタイトル「生まれながらのアホさかげんを乗り越える三つのやりかた」からもわかります。私たちは「生まれながらのアホさかげん」を持っているのです。これは『教養の書』で提示された話と呼応します。
私たちは無手で「考える」に立ち向かえる能力を持ち合わせていません。むしろそれをうまくこなせない「アホさかげん」を持っているのです。だから、無手ではなく武器を使うのです。
本書では、「テクノロジーを使って考える」「他者といっしょに考える」「考えるために制度をつくって考える」の三つのアプローチが提示されます。この視点は、拙著『すべてはノートからはじまる』と呼応しています。書くこと、他人、交流を通じて「考える」という行為を営んでいくこと。それが「生まれながらのアホさかげん」を持った私たちにできる対抗策なのです。言い換えれば、そうした対抗策を用いないなら、「生まれながらのアホさかげん」の中だけで考えていることになります。それは悪ではないにせよ、「じょうずに考える」行為とは言えないでしょう。
「考える」という行為は、その中身や自体が可視化できないからこそ、扱いが難しかったり、逆に軽んじられたりしてしまいます。しかし、人間が人間であることと「考える」ことは切っても切り離せないように思います。もしそれが避けがたい行為であるならば、少しでも「じょうずに」考えられるようになりたいものです。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。