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知的生産の技術書034『読書と社会科学』


倉下忠憲今回は34を。引き続き、「読書」についての新書です。

『読書と社会科学』(内田義彦)

タイトルの「読書と社会科学」の関係性はちょっと謎に思われるかもしれません。その二つに何の関係性があるんだろうか、と。

著者はこんな風に書いています。

が、小むずかしい社会科学の用語が、すべて、またおよそ、不必要かというとそうではない。厳密に定義づけをされた専門語、それを組み合わせた概念装置がなくては、──この点は、のちにしだいに説明してゆきますが──社会科学的認識はおよそ不可能であります。学者として、社会科学を勉強するために必要だというだけではない。むしろ、学者であろうがなかろうが、それを大すじにおいて真に身につけておかなければ、一市民として、身のまわりに生起する現象を社会科学的には認識することが不可能というのであります。それをどう身につけるか。

少し長いので、まとめておきましょう。

まず、学者は厳密に定義された専門用語やそれを組み合わせた「概念装置」を使って科学的な認識をしている。言い換えれば、そうした装置を抜きにして科学的な認識をするのは難しい。

次に、そうした認識は学問を行うためだけでなく、むしろ一市民として生活していく上で必要である。

では、どうしたらそのような認識──つまり、概念装置を通した認識──を身につけられるかと言えば、読むことによってだ、というわけです。本書の内容を補足して追記すれば「古典として本を読むことだ」となります。

引用した文では「社会科学」という限定がなされていますが、これは敷延しても問題ないでしょう。社会科学では、顕微鏡や望遠鏡のような物的装置をほとんど使わないので概念装置の重要性がより増しますが、その他の科学でも概念装置が不要というわけではなく、むしろ必須のものでしょう。

たとえば、昨今「科学的な」医療情報をネットでよく見かけるようになりましたが、そうした情報もまた脳内に概念装置が組み上がっていないと、ただ「情報として」通り過ぎていくだけになってしまいます。それが実際はどういうことなのか、何を意味しているのかを認識できないのです。

そうした状況を変えるための「読書」が本書では指南されています。以下の部分はもっとカジュアルにその内実を伝えてくれているでしょう。

本を読むったって、本を読むだけに終わったんじゃ、つまらないでしょう。ウェーバーについて詳しく知ったって、ウェーバーのように考える考え方、なるほどさすがにウェーバーを長年読んできた人だけあってよく見えるものだなあ、ウェーバー学も悪くないと思わせる見方を身につけなければ仕方がない。

ウェーバー(マックス・ウェーバーのことです)について詳しくなるだけでなく「ウェーバーのように考える考え方」を身につけること。つまり、ウェーバーが持っていた概念装置を自分の頭の中に組み立てること。そういう読書が本書では推奨されているわけです。

ちなみに、ここにある「ウェーバー学も悪くないと思わせる見方」ですが、これはfinalventさんによる「教養の基礎」と呼応しています。

教養について: 極東ブログ

教養の基礎とはなにか。人格か? 正義か? 美的センスか? 私はまるで違うと思う。私は単に独断なのか、私の教養の実は成果なのか、こう思う。教養の基礎とは「人の知性を快活にさせること」だ。そして、その「人」というのは、すべての層の人を含む。

「ウェーバー学も悪くないと思わせる見方」とはまさしく「人の知性を快活にさせること」でしょう。知識自慢な人の中には、相手を辟易させてしまう人もいるわけですが、そうではなく、相手の知性を活性化させ、何か考えることを促せるような力が教養だとすれば、本書が提示する本の読み方とは、まさしく教養を得るための読書法だと言えるかもしれません。

著者の概念装置が駆動しているその状態を示すことで、その振動が読み手にも伝わり、そこから装置の組み立ておよび駆動が促進される。そういう状態になるのが「楽しい読書」の一つの形態です。

そうなのです。本書もまた読書において「楽しさ」を重視しています。これはほんとうに大切なことなので、何度も繰り返したいのですが、読書にとって「楽しい」ことはきわめて重要です。10年も20年も楽しくないことを続けることはできないでしょうし、できたとしたらそれはそれで一つの地獄でしょう。「楽しさ」は、活動継続のベースなのです。

とは言え、著者はこうも書いています。

「志は奪うべからず」。どうか、会が楽しい会であるよう、有用かどうかだけではなくて楽しいかどうか、楽しみ方、楽しみの中身が深められているかどうかをもチェックポイントの一つにして、運営していって下さい。

これは読書会についての文章ですが、注目したいのは「楽しみの中身が深められているか」です。「楽しみ」というのは深まるもの、つまり変化するものなのです。知的生産の技術書031で紹介した『本はどう読むか』の中で、清水幾太郎も読書を続けていくうちに楽しめる本が変わっていたという自身の体験を綴っています。

楽しいことは続けられるし、続けていくうちにその「楽しいこと」が変化していく。

そのように変化する存在として人間を捉えれば、本を読むことの意味も違った見え方がするでしょう。これもまた概念装置の一つなのかもしれません。

知的生産の技術書100選 連載一覧

▼編集後記:
倉下忠憲


これまでの自分の活動はだいぶとっちらかっていた印象があるのですが、最近は少しずつ「メディアごとの役割」みたいなことが見えてきました。もちろん、それもまた時間と共にかわっていくのでしょうが、仮にであっても固定されているとちょっと安心できるものです。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中