私はここのところ「タスクシュートをグッドバイブス的に使う」という考え方をお伝えするようにしています。
たとえば「プロジェクト」という代わりに「自分の役割」というようにし、「割り込み」という代わりに「依頼」というようにするなどは、その一環です。自分のために時間を使うのではなく、依頼主のために時間を使うようにするのです。
最初は猛烈な抵抗があるかもしれません。しかし、これに慣れていくと、「自分の時間を守る」ために大変な苦労をしなくてもよくなるので、いろいろなストレスから解放されます。しかも、徐々に「自分の時間」が苦もなく得られるようになります。
ただ、どうしても「グッドバイブス的」にならないことがあって、それが「帯状の時間」という問題なのです。
しかしこれについて最近、違う考え方もできる、というより、違う考え方をしていたということに気がつきました。
13分は13分であって14分でも12分でもいけない
一言でいうと、タスクにかかる時間とかタスクの見積時間といったものは、その行動の本質と一体不可分のものなのであって、帯状の数量的時間の経過とは異なる、ということです。
たとえば私は家から駅まで13分という時間を見積もります。
よく「余裕を見るために少し長めに時間をとる」ということがありますが、それは賢明でありつつ、タスクシュートでは決して推奨されるべきではないと私はずっと考えてきました。
13分かかるのが「正しい」ケースにおいては、ちょうど13分をかけるべきなのです。
そこを12分や10分で行くことは決してよいことではないし、13分のところを、余裕を見て15分や20分「みておく」のは、常識かもしれませんが、理想的ではありません。
かけるべき時間より早く終わるのはよくないし、かけるべき時間よりも多くの時間をかけられるようにしておくのもいいことではありません。
と、私はだんぜん信じているのです。
13分というのは、時間の長さではありません。そのように考えることもできるだけです。
13分というのは、変化の総量であり、変化に必要なエネルギーであり、行動の本質の一部なのです。
早い話、13分と14分は、私に言わせれば本質的に異なるものなのです。非常に非科学的ではありますが、この感覚こそが、時間の管理に欠かせないものだと思っています。
また、異なる行動について数字の上では同じ時間の長さであっても、それは質が異なることです。駅まで歩く13分と、朝食準備の13分は、全く違う時間です。
そしてどちらの場合でも、本来かけるべき時間ぴったりの時間をかけるのが、正しいのです。
より正確を期すならば、本来かかるだけの時間ぴったりの時間かかるのが、というべきですが。
いうまでもなく、すべての行動はそのときどきで最新の行動であり、たとえ一万回繰り返すリピートタスクであっても、やっぱり完全に同じ行動はないので、かかるべき時間というのは微妙に異なります。
理想的には13分24秒か、それとも13分18秒かという違いは、常に変動するのです。
それでも、とくに入念に繰り返した行動については、本質的な時間がかかりつつあることを肌身でもって理解できるようになります。これこそが、タスクシュートを使う最終的なゴールだと、私は考えます。
たとえばこのシゴタノ!であれば、37分付近に、一つの「理想の時間のかかり方」があるのです。
その感覚は私には秒単位でわかる感じがあります。時間を数えているわけでは決してなく、いちども時計を見ませんが、血液の流れのようなもので、37分付近であることが感覚的にわかるのです。
これは「帯状にした時間の長さ」とは違うし、そもそも「長さ」ではありません。あえて言えばエネルギーです。行動と一体となっていて、行動から時間だけを概念的に分離する意味がないようなものです。
私はそれをタスクシュートから、いくつもいくつも知ったのです。それが私の時間管理です。
これは一見、短いほど「当てやすい」し、長いほど狂うように思われるかもしれませんが、そういうことではないのです。寝起きのあくびをする長さ(20秒)から、睡眠時間(7時間36分)の長さまで、異なる行動には行動ごとの、そのときどきの、最適のかかるべき時間の総量というものがあって、しかも質的に異なります。
このような感覚が身体的なレベルまで刻み込まれると、休憩しすぎて疲れるとか、仕事の見積時間が甘いといった、初歩的なミスがなくなっていきます。
そのために私がやっていることはやはり、毎回のように、一仕事が終わったらそれに「かかった時間」を確認することです。1000回繰り返すことで、このような感覚は特別なにをせずとも自然に手に入ります。
とりあえずいま、原稿が書き上がりました。36分10秒です。