ふと気がつくと、今年から使い始めたノート(手帳)が140ページを超えていました。計368ページのノートなので、半分近くまで使っている計算になります。
一昔前は、たくさんのノートを使い、それぞれにたくさんのメモを書きつけていたのっですが、最近はめっきりアナログノートに書きつけることも減っていました。その傾向から考えると、4月の時点で半分に迫ろうとするノートへの書き込みは、結構めずらしい現象だと言えます。
きっと、腰をすえて考えごとをする時間が増えたからなのでしょう。
手書きの手間、デジタルの手軽さ
手書きで何かを書き込むためには、結構な手間が必要です。柔らかいノートでは立ったまま書き込むのは難しいのでノートを広げるための机か椅子が必要ですし、そのためには一度立ち止まって、書き込むための時間を確保しなければなりません。
その点、スマートフォンはとても簡単にメモすることを助けてくれます。Evernoteを総合ノートとしているなら、FastEverというアプリを立ち上げて、ささっとメモを書きつけて送信できます。なんら手間は必要なく、もっと言えば立ち止まる必要すらありません。
どう考えても私たちは便利な世界に足を踏み入れています。一方で、デジタル化がもたらしたもの、というよりも常時ネットワークとスマートフォンがもたらしたものは、アナログノート時代の完全な上位互換というわけではなく、ある種のトレードオフを引き起こしています。
それが腰を据えて考えごとをする時間の喪失です。
埋められる隙間時間
スマートフォンを手にしてから、明らかに時間の使い方が変わりました。暇になればTwitterを開き、作業に疲れたらTwitterを開き、電子レンジの待ち時間にもTwitterを開きと、あらゆる隙間時間をTwitterが埋めてくれています。私の場合はTwitterですが、もちろん別のSNSの場合もあるでしょう。
どんなSNSであっても、基本的に作用は同じです。私たちの空き時間という空き時間を、「楽しい」タイムラインが埋めてくれているのです。有能なマルサのように、ちょっとした隙間も見逃さない目つきで、私たちの隙間時間は埋められていきます。
結果的に、私たちは(少なくとも私は、ということですが)、ボーッとする時間を無くしてしまいました。何も考えずに、あるいは何かを考えながら、無為の中で思惟を走らせる時間を喪失していました。
昔なら、そんなときにノートを開いて何かを書きつけたものです。そして、そういう時間がたくさんあったからこそ、私のアナログノートたちには書き込みがいっぱいあったのでしょう。
慌ただしい情報摂取への最適化
私はここでノスタルジー的に「アナログツールの良さ」を強調したいわけではありません。デジタルVSアナログのような単純な二項対立を作って知的プロレスをするのも楽しいかもしれませんが、ここで見据えたいのはもっと別の問題です。
ある時期以降、私の時間の使い方が変わり、それと共に頭の使い方まで変わってしまっている、という点がここで考えたい問題です。
慌ただしく情報摂取に追い立てられるあまり、考えを素早く処理するのが得意になる代わりに、考えそのものが深みのないものになってしまっている、つまり浅慮化してしまっている──それは大きな問題でしょう。少なくともうっかりスルーして良い状況であるはずがありません。
スマートフォンというツールは、慌ただしい情報摂取には最適なツールです。そして、そのツール(テクノロジー)は私たちの脳をマッサージします。私たちがどんどん斜め読みが得意になっていくとともに、自分の思考についても同様のアプローチをしてしまう、つまり斜め考えしてしまう。そういうことが起きているのではないでしょうか。
すばやくたくさんのメモを残せたとしても、それらを掘り下げて考えることができないならば、メモとしての意義はほとんどありません。備忘録・ログとしての価値を持つばかりです。少なくともそれは、知的生活にも、知的生産にもたいした役には立たないでしょう。
さいごに
恐ろしいのは、私に起きたような変化が、ほとんど意識されずに発生している点です。脳はマッサージされていても、そのことに気がつきません。それは脳が痛覚を持たないからではなく、「現実」を知覚する主体が脳だからです。地球が動いていることを、地球の上で暮らす私たちは知覚できません。系が同じだからです。
私たちがそれを認識できるとしたら、別の系への参照によってです。それこそ、昔の「私」の記録のような。
日常的に使用する情報ツールはそれが摂取目的であれ生産目的であれ、私たちの知覚に、ひいては思考に影響を与えます。しかも、無自覚にそれは発生します。
だからこそ、私たちは定期的に足を止め、どのような変化が起きているのかを観察し、その変化が好ましいものであるかどうかを改めて確認する必要があります。
どうでしょう。最近、腰をすえて考えるような時間を持てていますか。昔それを持てていたとしたら、今持てていないのはなぜなのでしょうか。
この問いは、一度取り組んでみる価値があると私は思います。
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最近私が考えていることと非常に重なることが書かれていました。今更インターネットなしの社会など考えられないわけですから、結局それを少しでも良いものにしていくにはどうするかについて考えていかなければなりません。本書は、現代の情報環境を再確認する上で有用な示唆がたくさんあります。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。