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行き当たりばったりだからこそ、うまくいく。



大橋悦夫「LOST(ロスト)」というシリーズドラマが好きで、全6シーズン・120話からなる超長編にもかかわらず、少なくとも通しで4回は観ています(1話あたり43分なので、全話観るのに86時間ほどかかることになります)。

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このドラマの舞台となる「島」の実際のロケ地はハワイのオアフ島なのですが、設定上は「謎の島」ということになっており、画面に映る範囲だけを観ていると「確かにこういう島がありそうだな」と感じます。

現実世界のオアフ島は観光地なので、高級ホテルが林立し、ビーチには常に人でにぎわい、サーフィンや水上スキーやヨットなどが当然のように風景の中に存在します。

そんなオアフ島にも、しかし、ひとけのないビーチや竹林、内陸にはジャングルもありますし、滝や池もあります。

「LOST」というドラマの舞台としてふさわしい、後者のような風景だけを慎重に選び出し、巧妙に切り取ることによって、観光地としてのハワイらしさが取り除かれ、人の気配のない、現実には存在しない「謎の島」がスクリーン上に現出します。

つまり、見せたいイメージがあるとき、隅から隅まで全体を描かなくても、特徴的な断片をいくつか選び出し、これらを文字通り断片的に見せることで、残りの部分は見る人が想像力を駆使して補ってもらえます、「確かにこういう島がありそうだな」という風に。

すべてを見せなくてもいい、見せないほうがいい

断片だけを見て残りの部分を想像で補うと、そこに誤解の余地が生じます。

以下の記事で言及した『ブッダとシッタカブッダ』のページはまさにこれです。

映画やドラマの場合、どの断片をどんな順番で見せるかを巧妙にコントロールすることで、観ている人に狙ったとおりの印象を持たせたり、誤解させたり、あるいは感情を揺さぶったり、といった効果を上げることができます。

このあたりが映画やドラマを観る楽しみなのですが、見せる側からすれば、限れらた情報量でいかに広大無辺な世界を表現できるかのチャレンジということになります。

むしろ、見せる情報を限定するからこそうまく伝わる、ということはあるでしょう。

すべてを伝えようとしても情報が多すぎて結果として何も伝わらないことがあるからです。

道に迷ったときに、詳細すぎる地図が役に立たないことに似ています。

切れ目があるのに継ぎ目なく連続していると認識する

映画やドラマというものは常に断片だけを提示します。観る側はこれを手がかりに全体像を頭の中で思い描きながら追っていくことになります。

ブツ切りに提示されても、観ている側は「出来事が時間順に連続して起こっている」と(勝手に)解釈しますから、継ぎ目のない連続した時間が流れていると認識します。



継ぎ目をなくしてみたら、どうなるか?

とはいえ、現実にはシーンが切り替わるわけですし、同じシーンの中でも、細かくカットが分かれることもあるので「カットの合間で何かが起こっているかもしれない」という疑念は残ります。

カットされることで、一瞬であれ「段差」を感じるので、その違和感が疑念を喚起するわけですが、わずかな段差であれば「見えなかったこと」にするのは難しくないので、さほど支障はありません。

それでも、継ぎ目がいっさいなければ、つまり、いっさい場面が切り替わることがなければ、どうなるか?

これは映画では「長回し」と呼ばれる手法で、僕自身は「ブギーナイツ」の冒頭の3分弱におよぶ長回しが好きです。

時間としてはわずか3分ではありますが、このシーンの中で主要なキャストが一通り画面に登場し、それぞれの関係性も描かれます。ウェブサイトでいえば「サイトマップ」のような位置づけといえます。

冒頭でこのシーンを目にすることで、この映画の世界観が頭の中に入り、その後のストーリーが追いやすくなります(むろん、ここであえて誤解させることで、観る側をミスリードすることも可能です)。

その後も、さまざまな映画で長回しに出会うたびに「いったい何テイクかかったんだろう?」とか「このアングルはどうやって実現したんだろう?」などと見せる側目線で繰り返し観続けてしまうほどに夢中になっています。

「グッドフェローズ」の以下のシーン(3分ほど)も、撮り直すたびにキャストはもちろん、スタッフからエキストラからすべて最初からやり直すわけですから、想像するだに恐ろしい…。



そんな中、数日前に、遂に、究極の長回し作品に出会ってしまいました。

「大空港2013」という邦画で、三谷幸喜さん脚本・監督作品です。

7年も前の作品なので、ご存じの方も多いと思いますが、僕自身は何の前情報もなしに観始めて度肝を抜かれました(その意味では、これから観るという方は、ここで読むのをやめて、先にこの映画を観ていただくことをおすすめします)。

最初から最後まで切れ目がまったくない

要するに、全編長回しの作品、ということです(むろん、ほかにも「全編長回し」の作品は作られていますが、僕にとっては「大空港2013」が最初の作品です)。

  • 観始めてから数分たったところで「あれ、なんかシーンがぜんぜん変わらないぞ?」という不安にも似た違和感を覚え、
  • 観続けるうちに「まさか、このまま最後まで行ってしまうつもりか?」と淡い期待が芽生えるも、
  • 「でも、そんなことをしたら、役者たちはいっさいNGを出せないじゃないか!」と余計な心配までし始めつつ、

そのまま最後まで観続けてしまいました。

そんな全編長回しの「大空港2013」を観ている最中に、ふと気づきました。

生まれてから今この瞬間までというのは長回しのようなものだよな、と。

人生はアドリブの連続

映画の長回しは脚本ベースで展開していくものですが、現実の人生には脚本はなく、すべてアドリブで進行していきます。

そう考えると、今この瞬間に繰り出すアドリブによって人生はいつでも変えられることになります。

「大空港2013」の2年前に公開された、同じ三谷幸喜さんによる、やはり全編長回しの「short cut」(2011)という作品があります。

「大空港2013」がたいへん面白かったので、そのままの勢いで「short cut」も観てみたのですが…、観る順番を間違えたようです。

「short cut」は三谷監督にとっては最初の“アドリブ”であり、しかし、これが足がかりとなって「大空港2013」が生まれたのであろうことが時系列を遡って鑑賞してみたことで分かりました。

「大空港2013」に比べると「short cut」は正直なところ物足りなく、「全編長回し」という形式を達成することが目的のように感じたのです。ここでの達成があったからこそ、これを土台にして「大空港2013」が成功できたのだ、と。

この成功の舞台裏が気になって調べてみました。

実在する松本空港を開業時間前の2時間(7:00~9:00)を貸し切りにして、6日間連続で毎朝撮影を行い、最もできの良かったものを「採用」したのだとか。

前作の「short cut」の登場人物は3人で、うち1人は途中と最後に登場するだけで、主に2人のやり取りで物語が進行します。舞台は山の中(長野県伊那市)のため、エキストラはゼロ。

つまり、最小限の人員かつ不確定要素を限りなく取り除いた「設定」で挑戦していることが分かります。

その後の「大空港2013」になると、登場人物は一気に12人に増え、空港内には常に一般人(エキストラ)が動き回っています。6日間(=6回)のチャンスがあるとは言え、一箇所でもNGが出たら、その日の撮影はそこで終了になってしまうという厳しい「設定」。

最初からこのハードモードで挑んだら間違いなく失敗していたでしょう。そもそも、このような「設定」を思いつくことすらなかったのではないかと思えます。

つまり、たまたまであれ、とにかく思いついたことをやってみる。思ったとおりにできなかったとしても、何らかの結果が得られますから、これを糧にまた別のトライアルを重ねる…うちに「こういうこともできるんじゃないか?」という、文字通り思ってもみなかったアイデアが降りてくる。

行き当たりぴったり

13年前(2007年)に書いた以下の記事で次のようなことを書きました(少し長いですが引用します)。

・1996年 4月 新卒で某SI企業に就職、システム開発の仕事を始める
・2000年 3月 同社を退職、1ヶ月ほど何もせずに過ごす
・2000年 5月 派遣会社を通じてマニュアル制作の仕事を始める
・2000年 8月 たまたま知り合った方と一緒に本を出す
・2000年10月 たまたま知り合った方から契約社員の仕事を紹介される
・2000年11月 契約社員として某社で英和辞典の編纂支援の仕事を始める
・2000年12月 同社の社内システムの開発・保守の仕事を始める
・2001年 1月 テキストサイトを始める(1年半続けたのち閉鎖)
・2002年 8月 なりゆきで2冊目の本を出す
・2002年 8月 XOOPSでWebサイトを作り始める
・2002年 9月 恩師に専門学校の非常勤講師の仕事を紹介される
・2002年10月 某専門学校にてプログラミングの講師の仕事を始める
・2003年 1月 XOOPSがらみで知り合った方のオフィスを間借りし始める
・2003年10月 マーケティングの仕事に興味がわく
・2003年11月 XOOPSがらみで知り合った方の紹介で某社社長を紹介される
・2003年12月 某社社長の紹介で某マーケティング会社を紹介される
・2003年12月 某マーケティング会社の社長と面談、お誘いいただく
・2004年 3月 同社に入社(それまでの仕事も一部継続しつつ)
・2004年 9月 この頃、ブログをいくつか始めるもすべて挫折
・2005年 3月 同社を退職
・2005年 4月 U氏と知り合う
・2005年 5月 XOOPSを使ったWebサイト制作の仕事を始める
・2005年 6月 XOOPSでブログサイトを始める(のちにシゴタノ!と命名)
・2005年10月 U氏の主宰するカンファレンスで翔泳社の編集者を紹介される
・2006年 3月 U氏の紹介でとあるブログメディアで連載を始める。
・2006年 4月 翔泳社より3冊目の本を出す
・2006年 4月 日経ビジネスオンラインで連載を始める
・2006年 6月 ITMedia Biz.IDで連載を始める
・2006年 7月 U氏が起業したのを期に同社のアドバイザーに就任
・2007年 1月 日本実業出版社より4冊目の本を出す

最初の4年間の正社員時代より後は、その場その場の出会いや関心に基づいて行動していたことがわかります。そして、その岐路にはたまたま知り合った人が重要な役割を果たしていたりもします。

このような「キャリア」は新卒で会社に入った当時は想像もつかなかったことでしたし、予測も計画もできない道のりであり、何がどのように影響するのかもわからない道のりです(僕に限らず多くの人にも当てはまるとは思いますが)。

でも、わからないことはむしろ都合の良いことだと思っています。あらかじめわかってしまったら、それに備えて心の準備をしてしまうために、たまたま目の前を通りかかった「チャンス」を予定外のものとして排除してしまうかもしれないからです(「これは自分には関係ない」などと)。

映画を観るときに事前知識なしに観た方が楽しめることに似ているでしょう。

当時の過ごし方はまさにアドリブで進行している長回しだったことが窺い知れます。そして、13年たった今もそのアドリブ進行が続いていることに改めて気づかされます。

このブログを始めて1年目、今から15年前(2005年)に書いた以下の記事で、ジャパネットたかた社長(当時)の高田明さんの次のような言葉を紹介しています。

高田社長曰く、

その時その時を一生懸命やる。やっているものはなんでも面白ければハマってしまう性格だから、あまり先のことは考えていない。10年後、20年後を考えても人生はわからない。むしろ考えない方がいい。

今この2,3年にいろいろな人に会って、いろいろな本を読んで、いろいろな経験をしていけば、それで人生が変わっていきますよね。だから、あまり先のことを悩むより今のことをやればいい。

儲かるからやる、というよりはやってみたら面白かったからどんどんやる、という感じなんです。

文章に起こす際に若干編集しましたが、おおむね上記のようなことを話していました。

当時の僕は、長期計画というものを立てよう立てようと思いつつ、一向に取りかかることができずにいたので、高田明さんのこの言葉には大いに勇気づけられました。

それから12年たった3年前(2017年)に書いた以下の記事では、高田明さんの初の自著を紹介していますが、一読して「すごい、12年たってもぜんぜん変わってない! そのまま走りきってしまったんだ!」と感嘆しています。

感嘆したのは以下の箇所を読んだときです。

ジャパネットたかたの経営を振り返ってみると、「長期的なビジョンを持たない積み上げ経営」だったと思います。「長期計画のない経営」「目標を持たない経営」というテーマで講演したこともあります。計画性はほとんどなかったんです。

私は5年先、10年先の自分や会社の姿を思い描いたり、目標を立てたりして、それを達成するために今なすべきことを考えるという方法はとりません。そもそも5年先に何をしたいか、どうなっていたいか、ということすらあまり考えません。半年先、1年先のことも考えないんです。

軸足を置いていたのは、とにかく「今」です。今できることに最善を尽くす。そこから、次のステップが見えてくる。最善を尽くす中で次のステップが見えてきたら、スモールステップで次に進む。その繰り返しで成長を続けてきました。目標と呼べるようなものがあったとしたら、それは、とにかく昨日よりも今日、今日よりも明日、今年よりも来年と売上を伸ばし、成長していくという強い想いでした。(p.231)

つまり、行き当たりばったりでもいい。

計画を立てずに「今」に目を向けて行き当たりばったりで動くからこそ行き当たりぴったりに生きられる、というわけです。

この記事もまた、冒頭のイラストを描くというアドリブから出発して、そのままアドリブを重ねながらここまで来ました。

3年前に読んだ以下の本で出会った「書く前に考えたことしか書けない文章は失敗である」という一文がよりどころです。

この本も、ブログというアドリブがなかったらきっと出会えなかったでしょう。

かくのごとくアドリブの連続で人はどんどん変わっていくことを考えると、ある時点のある瞬間の言動だけを見てその人のことを判断するのは実に危ういことだと改めて実感します。

逆に言えば、過去にダメだったからと言って、今も引き続きダメとは限らない、ということでもあります。