» 前回:アイデアの性質の四象限 | Aliice pentagram | シゴタノ!
前回で「記録管理」については一段落しました。これで「知的生産の五芒星」の二つ目まで辿り着いたことになります。今回からは三つ目の要素である「知的作用」に入りましょう。
まずは、この「知的作用」について考えてみます。
知的生産のコア
情報をインプットし、それを保存(記録)すること。知的生産のことはじめとも言える行為ですが、もちろんそれだけでは完結しません。次なる一歩が必要であり、その一歩こそが知的生産活動のコアでもあります。
知的生産とは、「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出すること」です。当然それを為すためには、「頭をはたらかせる」ことが必要となります。頭をはたらかせなければ、どれだけ大量の情報を発信しても、それは知的生産とは呼べません。
知的生産が知的生産たりうるのは、「頭をはたらかせる」からこそです。
「考える」の曖昧さ
「頭をはたかせる」ことは、日常的に言い直せば「考える」となります。しかし、これほど直感的でありながら、漠然とした言葉もありません。「考える」が意味するものはたいへん多様で、曖昧としています。
上司が部下に対して、「ちょっと企画案について考えてこい」と言ったとします。部下の方も、「はい、わかりました。考えてきます」と答えます。問題は、この両者が使う「考える」が同じかどうかです。
それが人間の脳を働かせる行為である、という点では同一でしょう。しかし、具体的にどんな知的活動を指しているかにまで踏み込めば両者が違っている可能性が出てきます。片方は、連想ゲームで遊ぶことを意味していて、もう片方は、数学の問題に解を与えることを意味しているかもしれません。それでは話が通じるわけもありません。
これは、「パソコンを使う」という表現と似ています。一口に「パソコンを使う」と言っても、表計算する、絵を描く、文章を書く、メールを送るといった行為すべてがここに含まれます。よって、「パソコンを使いましょう」と言われても、それが具体的にどんな行為を指しているのかは明確ではありません。話を通すためには、アプリケーションレベルの表現が必要です。
「考える」も同様です。「考える」だけでは、実体を定めにくいのです。「自分の頭で考えよう」といったアドバイスをときどき見かけますが、これも曖昧模糊としていて、「自分の頭で考えよう」ということについて自分の頭で考えねばならず、堂々巡りに陥ってしまう可能性すらあります。
よって、「考える」ではなく、それを実装するためのアプリケーション__一般的に「思考法」と呼ばれるもの__を限定した方がよいでしょう。その方が、より具体的、実際的な話になりそうです。
知的作用とは
とは言え、「考えるとは何か?」という問い立てでは、あまりにも探索するフィールドが広くなってしまいます。なにせ人の思考の柔軟性と対象領域は、それこそ宇宙空間ぐらいに広いのです。
ですので、ここでは知的生産活動において用いられる「考える」にだけフォーカスしてみましょう。そしてその、フォーカスした対象を知的作用と呼ぶことにします。
知的生産活動の中で行われる、「頭をつかう」こと。それが知的作用です。
その知的作用により、新しい情報が生まれたり、情報に新しい価値が加わったりします。それはまた、一つの楽しい行為でもあります。考えることは、基本的に快なのです。この点を抜いて、知的生産活動について考察しても、本質を外すことになるでしょう。世の知的生産者は別に苦行でそれをやっているのではありません。あくまで、面白い、楽しい、嬉しい、からやっているのです。
その点は外さない方がよいでしょう。
さいごに
今回は、「知的作用」という新しい言葉について考えてみました。基本的にはそれは「考える」こととイコールですが、「考える」の全体領域の一部にフォーカスしたものでもあります。記号を用いれば以下のようになるでしょう。
知的作用⊂考える
次回から、この「知的作用」にはどのようなものが含まれるのか、どんなノウハウがありうるのかについて「考えて」みます。
▼今週の一冊:
この原稿を書いているときはまだ発売されていませんが、この原稿が公開されているときにはたぶん読了しているでしょう。今から楽しみです。
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2月も終わりが迫ろうとする中、忙しさにまみれながらも春樹さんの新刊を読む時間だけはしっかり確保しようと一週間頑張りました。こういうイベントがあるときには、仕事はサクサク進むものです。悲しいながら。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。
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