たったこれだけのことで、抜群にメモしやすくなるので、この種のインターフェイスはバカにできません。
「見た目」の問題ももちろんですが、それ以上に、実際こうなると従来の「一行メモ欄」とは違って、「改行以下」が見える化されるので、たとえば箇条書きなども全部たすくまに書き残す気運が高まります。
手書きかデジタルかは単に慣れの問題
異論はあるでしょうが、私はメモの手書きがいいかデジタルでもいけるかというのは、多分に慣れの問題だと思います。
もちろん図が入るなら話は別です。それはたすくまのメモ欄では無理な話です。
しかし、メモしたいことを文章化して、それをただ書き残せばいいのであれば、私はたすくまのメモで事足ります。
これは私の脳が特殊だというのではなく、慣れたからです。
以前、留学中ずっとアメリカで暮らしていて、しかも専攻を英語で勉強していれば、「イヤでもいつかは」英語で思考するようになる、と指導教官から言われたことがあります。
とてもそうは思えませんでした。「大麻には常習性があって、禁断症状にいたる場合もある」といった内容を、英語で自然と考えるようになるなんて、自分の語学力ではとても実現できそうにない、と。
という考えは全くの誤りでした。これは「語学力うんぬん」の問題であるようで、実は習慣の問題でした。
朝起きてテレビをつければアメリカのニュースが英語で流れ、授業に行けばアメリカ人ばかりで、先生もアメリカ人で、教科書も英語だという環境にあって、「思考だけ日本語」というのは、めんどうくさくてできなくなるのです。
「めんどうくさい」というのは言葉以上に驚異の力を持つ、というようなことはよく言われますが、これは言葉がいけないのです。「めんどうくさい」というと、何かごくつまらないことをおっくうがっている怠け者、みたいなイメージがつきまといますが、めんどうくさいというのはしばしば、とても不自然なことを無理してできない、という意味です。
頭の中で、マリワナを大麻に、ハビタントを常習性に、ウィズドローワルを禁断、シンポタムを症状、ケースを場合、などといちいち精神力を用いて書き換えるのでは、時間はかかるしすごく疲れるしで、そのうちぜんぜんやらなくなります。「ぜんぜんやらなく」なるということは、「英語で考えて」いるのです。
メモもまったく同じで、少なくとも私の環境において、文章はすべてテキストにするのだし、その過程で使うのはEvernoteかNotebookかUlyssesということになっているのに、メモだけあえてメモ用紙を使うというのは、時間もかかるしすごく疲れるので「いつしかやらなくなった」だけです。
しかし「メモする」ことだけはやり続けているので、ほとんど無意識のうちにたすくまに打っているわけです。あえて意識的にメモ帳を使うこともできるわけですが、それはあえてやることです。日本にいるのに、思考だけ英語でやろうというようなものです。
そもそも紙の手帳にメモするというのは、メモをする人だから「それが自然で人間的」だと言うのです。
メモをする習慣自体を持たない人にしてみれば、目の前にメモを置かれても、それに思考内容を書き付けるということ自体が「不自然で疲れる」と言うでしょう。「メモなんか、いちいちやってられない」と言うでしょう。
紙に手で書くことが脳にとって自然、などということはまったくありません。それは後天的に、人為的に、訓練して「身につけた習慣」です。「たすくまにデジタルメモを残す」のも、訓練した習慣なのです。