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「使いこなせるようになりたい」とは一体どういうことか?

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大橋悦夫「●●を使いこなせるようになりたい」という言葉を耳にするたびに、いつも考えるのは、何がどうなったら「使いこなせている」ことになるのか、ということです。

「使いこなせるようになりたい」と感じるということは、「少なくとも今の自分は使いこなせていない」と感じているわけです。「使いこなせている」という状態が具体的にどんなものであるかがハッキリと定義できなかったとしても、です。

「ゴールがどこにあるのかは分からないけど、少なくとも今の自分はまだゴールには到達していないことは分かる」という状態。

「使いこなせている」というゴールを明確に定義すれば、次にすべきことが明らかになるでしょう。この「ゴールの明確化」は、しかし、先送りされることが多いようです。

この先送りには2種類あります。

1つめは意図的な先送り。ゴールをあえてあいまいにしておくことで、「まだ到達していないけど、もしかするとサクッと到達できるゴールかもしれない」という淡い期待を持ち続けることができます。「使いこなせているとは言えないけど、自分的にはそこそこいけてるんじゃないかな!」という、ポジティブな気分でいられます。

もう1つはやむを得ない先送り。とにかく「分からない」のです。

今回は、後者のケースについて考えてみます。「使いこなせる」とは何なのか? どう考えればいいのか?

あめんぼあかいなあいうえお…次は何だっけ?

滑舌をよくするための発声練習によく用いられる「あめんぼの歌」。2010年にボイストレーナーに習って以来、繰り返し練習してきました。

最初は「歌詞」を見ながら練習していましたが、ほどなくして暗記できたので、以降は何も見なくても、頭を使わない手作業をしながらでも唱えることができるようになっています。

「あめんぼの歌」は以下のようなもので、全部で20行あります。

あめんぼあかいなあいうえお (水馬赤いなあいうえお)
うきもにこえびもおよいでる (浮藻に小蝦も泳いでる)
かきのきくりのきかきくけこ (柿の木栗の木かきくけこ)
きつつきこつこつかれけやき (啄木鳥こつこつ枯れ欅)
ささげにすをかけさしすせそ (大角豆に酢をかけさしすせそ)
そのうおあさせでさしました (その魚浅瀬で刺しました)
たちましょらっぱでたちつてと (立ちましょ喇叭でたちつてと)
とてとてたったととびたった (トテトテタッタと飛び立った)
なめくじのろのろなにぬねの (蛞蝓のろのろなにぬねの)
なんどにぬめってなにねばる (納戸にぬめってなにねばる)
はとぽっぽほろほろはひふへほ (鳩ポッポほろほろはひふへほ)
ひなたのおへやにゃふえをふく (日向のお部屋にゃ笛を吹く)
まいまいねじまきまみむめも (蝸牛ネジ巻まみむめも)
うめのみおちてもみもしまい (梅の実落ちても見もしまい)
やきぐりゆでぐりやいゆえよ (焼栗ゆで栗やいゆえよ)
やまだにひのつくよいのいえ (山田に灯のつくよいの家)
らいちょうさむかろらりるれろ (雷鳥寒かろらりるれろ)
れんげがさいたらるりのとり (蓮花が咲いたら瑠璃の鳥)
わいわいわっしょいわゐうゑを (わいわいわっしょいわゐうゑを)
うえきやいどがえおまつりだ (植木屋井戸換へお祭りだ)

こちらより転載。

「あめんぼあかいな…」と口にし始めれば、あとは再生ボタンを押したテープレコーダよろしく自動的に言葉が出てきます。

ところが、ときどき「あれ、次は何だっけ?」と急に次の言葉が出てこなくなることがあります。

すっかり暗記したはずの言葉が出てこなくなるのは不思議なことですが、出てこなくなるときというのはたいてい「意識したとき」です。

「次は何だっけ?」などと考えたとたんに、それまで淀みなく流れていた出力が“詰まる”のです。

そんなときは、改めて最初から「あめんぼあかいな…」と始めると、思い出すことができます。流れを邪魔せずにそっとしておくと、自然と流れ始めるのです。

階段を昇っているときにも、「あれ、次は右足を出すんだっけ? 左足?」などと考えた瞬間にコケそうになりますが、あれに似ています。

意識したら途端にリズムが狂い、流れが淀むのです。

注意しすぎると失敗する

『非才』という本にこのあたりのことが詳しく解説されています。

この状況を再現したのはアリゾナ州立大学の心理学者、ロバート・グレイである。

彼は大学対抗戦で戦うすぐれた野球選手の一団を対象に、無作為に流される音を聴いて周波数の高低を判断しながら、飛んでくるボールを打ち返すように求めた。

予測どおり、音を聴き分ける課題は、スイング能力には悪影響をおよぼさなかった(足踏みを数えるのがジェームズのフォァハンドトップスピンになんの影響も与えなかったように)。

なぜだろうか? 打者たちはショットを自動化しているからだ。

だが、音がした瞬間にバットが上へ向かっていたか下へ向かっていたか述べるように求められると、パフォーマンスの水準は急に落ちた。

なぜだろうか? 今回は第二の課題によってスイングそのものに注意を向けるように強いられたからだ。本来なら自動であるはずのストロークを、今回は意識的に監視していた。顕在的な監視が潜在的な実行と戦っていたのだ。

問題は注意が足りないことではなく、注意しすぎることにあった。意識的な監視が潜在的システムの滑らかなはたらきを台なしにしていたのだ。異なる運動反応の順序づけとタイミングが、初心者並みにばらばらになっていた。

事実上ふたたび新米になってしまったのだ。(p.210)

無意識にできるようになったこと、すなわち注意を向けなくてもできるようになったことに改めて注意の光を当てると、調子が狂ってしまうというわけです。

発声練習をしているときに、ふと「はとぽっぽほろほろはひふへほ」の次はどうして「ひなたのおへやにゃふえをふく」なんだろう? などと考え始めると、その次の「まいまいねじまきまみむめも」が出てこなくなってしまうのです。

使いこなせる=無意識に使える

「使いこなせる」とはまさにこの「無意識に使える」という状態、考えなくても自然と手が動く状態といえます。

例えば、パソコンで文章を書こうとした時に「今から文字を入力するために、まずキーボードのホームポジションに両手を置いて…」などと取り立てて考えなくても、「これから書こうとすること」だけを考えれば、あとは手が勝手に必要な操作を行い、考えたことが画面にどんどん出力され始めます。

パソコン、キーボード、ワープロソフトなど一連のツール(媒介物)が限りなく透明になり、その両端にある脳と画面がまるで直結しているかのような感覚。

こちらの記事で佐々木正悟さんが以下のように書かれていましたが、まさにこの感覚です。

» ライティング環境「Ulysses」で仕事がはかどるようになった 

HDDにダイレクトに文章を書き込んでいる、そんな感じを受けるのです。ファイルを開いて文を書くのではなく、フォルダに直接ノートして、その結果としてファイルがフォルダに蓄積されている。この感覚だと、文を書く気になれるのです。

この感覚は、以下いずれかによって実現します。

  • 使う側がツールに習熟すること
  • ツール側が使う側の感覚に寄り添うこと

例えば、「タッチタイピング」や「車の運転」は前者寄りであり、「Ulysses」は後者寄りといえます。

「最初はさっぱり分からなかったけど、使い続けるうちにだんだん馴染んできた」という感想をもたらすアプリは前者であり、「マニュアルを読まなくても直感的に使える」などと評されるアプリは後者です。

ちなみに、残念ながらというか何というか、TaskChuteは間違いなく前者です。激しく注意を向け続ける期間が数週間から数ヶ月続き、その後にゆるやかに「無意識ゾーン」に移行します。

この「注意を向ける」という概念は『学びとは何か』という本で学びました。

あるスキルを覚えて間もないときには、ほとんどの情報処理をスキル共通の制御のネットワークで行うしかない。

何に注意を向けたらよいのかがまだよくわかっていないので、雑多な情報に注意を向けなければならないし、ネットワークがそのスキル向けに調整されていないので、情報処理の負荷がとても大きい。

何度も繰り返し行うことにより、そのスキルに特化した記憶がそれにかかわる脳の様々な場所に貯蔵されていく。そしてそのスキルだけに向けてチューニングされた制御システムがつくられるようになる。

それによって、そのスキルを実行するときにそれまでの学習によって脳の各部分に蓄積されていた記憶が自動的に素早く取り出し可能になるのだ。(p.124)

この「そのスキルだけに向けてチューニングされた制御システムがつくられるようになる」という状態がまさに「使いこなせている」ということになるでしょう。

 

参考文献:

『非才』は実に知的好奇心を駆り立てる骨太な一冊なのですが、それだけにかなりの歯ごたえなので、まずは新書の『学びとは何か』から読まれた方がいいと思います。とはいえ新書にしては非常に“肉厚”です。

僕自身は、もともと『非才』を読んでおり、その後に『学びとは何か』を読んでいたら「似たような話が『非才』にあったぞ!」とふと思い出して、改めて読み返してみたら重なる部分が多く、理解がより深まった、という経緯があります。