以下の記事を読んで、私も試してみているのですが、なるほど執筆作業がはかどります。
» Markdown記法で書けてバージョンごとに保存もできるライティング環境「Ulysses」 | シゴタノ!
どうしてなんでしょう?
Ulyssesで文章を書く感覚は、「紙copi」で文章を書く感覚を思い出させてくれます。このツールも非常に使いやすく、ずいぶん文章を書きました。本の原稿もいくつか書いたものです。
ファイルを開き「新規文書作成」し、名前をつけて、保存する。それをまた開いて、文を書く。
たったこれだけのことが、どうしてああも、奇妙な心理的ハードルを感じさせるのでしょうか? このプロセスで文章を書こうと思うと、妙に先送りしたくなる。タイトルなんか、思いつかない。「無題」のままも、イヤである。「8桁の日付にする」のも、なんか違う。
こんなことを考えている時点で、何かが違います。文章を書くこととは、無関係のことばかりです。
逆に、紙copiやUlyssesだと、どんな感じがするか。
HDDに直接書き込んでいる感覚
HDDにダイレクトに文章を書き込んでいる、そんな感じを受けるのです。ファイルを開いて文を書くのではなく、フォルダに直接ノートして、その結果としてファイルがフォルダに蓄積されている。この感覚だと、文を書く気になれるのです。
あまり合理的とは言えません。手間としての違いはごくわずかで問題にならない程度ですし、しかもHDDに直接書き込んでいるだとかいった感覚自体、錯覚です。私は今やHDDを使ってすらいませんし(SSDだから)。
しかしながら「間接的」か「直接的」かというのは、大きな違いなのです。直接できるならやることでも、間接的にしかやれないと、やる気がしなくなります。間接的な障害を乗り越えるハードルが、ほとんどゼロでも、です。
たとえば、どうしてタブレットに専用ペンで文字が書けるというだけで、そこそこ話題をさらえるかというと、いかにもそういうことができそうなのに、コンピューターはそういうことをさせてくれないからです。
メモにボールペンで自由に書くのは子どもにもできるのに、コンピュータのデスクトップには、通常何も描けない。
それどころか、スマホの待機画面にも、そのまま何かが書けるわけではない。「アプリ」が必要です。Kindleのような電子書籍端末も、書き込みするとなると、えらくめんどうくさい。
こういう間接感覚が、人間には嬉しくないわけです。だからこういうものが、意外なくらい賞賛されます。
もちろん、Ulyssesにはいろいろな「書くため」の専門的な機能が用意されています。「マークダウン記法」も人気でしょう。
でも私は、Ulyssesを開きっぱなしにしておくだけで、机のMacでも、電車に持ち込んだMacBookでも、iPhoneでも、同じように文章を編集でき、その結果が常に同期され、「開く」も「保存」も不要なのがいい、という気がしています。
Macに「直接」文章入力ができる感じがするからです。