私は村上春樹さんの大ファンで、メモ魔でもあります。
しかしながら、新刊『職業としての小説家』に以下のような記述がありました。
(前略)もちろんそういう専用のノートを作って、そこに書き留めておいてもいいんですが、僕はどちらかといえばただ頭に留める方法を好みます。ノートをいつも持ち歩くのも面倒ですし、いったん文字にしてしまうと、それで安心してそのまま忘れてしまうということがよくあるからです。
どうやら春樹さんはメモ魔ではないようです。なんとなく残念です。あるいは、こんな記述もあります。
たしかに、そう言われてみれば、僕にも「今ここにノートがあればな」と思うようなことって、これまでほとんどなかったですね。それに本当に大切なことって、一度頭に入れてしまったら、そんなに簡単に忘れないものです。
さすがにこの部分には反論したいところです。たしかに「本当に大切なこと」の大部分は、簡単には忘れないかもしれません。しかし、必ず思い出せるというものでもないはずです。
また、完璧に忘れてしまえば、「忘れている」事実そのものは決して認識されません。「何か大切なことを思いついた」ということも忘れるからです。「今ここにノートがあればな」と思うようなことが、これまでほとんどなかったとありますが、もしかしたら、そうした事実があっても、忘れているだけかもしれません。そうした記憶の死角には注意したいところです。
それはそれとして
ポイントは、春樹さんの仕事スタイルにあるのかもしれません。春樹さんは依頼されては長編小説を書かないようです。書きたくなったら__つまり、素材が十分に蓄積したら__書く、というスタイルです。
このようなスタイルであれば、たしかにメモの管理は必要ないのかもしれません。人間の記憶が「本当に大切なこと」の8割しか維持できないとしても、130の素材に触れれば、頭の中には100を超える素材が残ることになります。つまり、十分なストックができるわけです。
しかし、そんなスタイルで仕事できる人はそう多くないでしょう。時間の制約がある中でアウトプットを生み出すならば、取りこぼしを許容している余裕はありません。メモでしっかりと捕獲しておく必要があります。
また、本書では触れられていませんが、春樹さんが短編小説を書くときは、いくつかのテーマをストックしておき、そこから三つほどテーマを選んで書く、という三題噺のようなスタイルを用いられるようです。この場合のテーマのストックは、何かしらの記録媒体を使って行われるのでしょう。
その意味で、まったく記録を使っていないわけではありません。あくまで、小説の「マテリアル」をノートにメモしない、というだけの話です。
ちなみに、比較的どうでもいい話ですが、私も小説を書くときは頭の中の素材だけを使います。ノートの情報を参照して、ということはありません。対して、実用書を書くときは、ひっきりなしにノート・メモを活用します。同じ人間でも、生み出すものによって、手法というのは結構変わってくるようです。
抽斗
もう一つ、あとがきに次のようなことが書かれていました。
- 本書に収められた原稿を書き始めたのは五、六年前
- 小説を書くことについてなど、語っておきたい気持ちがあった
- 仕事の合間に暇を見つけては、そうした文章を断片的に、テーマ別に書きためていた
そうして完成した文章は、すぐには世に出ませんでした。時期尚早と感じたからだそうです。次のように続きます。
そう思って、抽斗に放り込んだままにしておいた。そしてときどき引っ張り出しては、あちこち細かく書き直した。
まるでヘミングウェイのようではありませんか。
ここで使われている「抽斗」が物理的なほんとうの抽斗を指すのか、電子的なファイルのメタファーなのかはわかりませんが、ここには「記録」の活用がはっきり見て取れます。(広義の)ノートが活用されているのです。
さいごに
村上春樹さんは、ノートをいつでも持ち歩き、長編小説のマテリアルを集めるようなことはされていないようです。つまり、メモ魔ではありません。かといって、「ノート」__つまり記録を保存しておく媒体__をまったく使っていないわけでもないようです。
数年間かけて原稿をこつこつ書き直していくというコンセプトはまさにノート的です。物理的であれメタファーであれ、情報を保存しておく「抽斗」を持っておくことは有効でしょう。特に、「一つのことだけを考えていれば、ほかのことはまったく考えなくてよい」という状況でないのならば、なおさらです。
おそらくそこで重要になってくるのは、記録を使うか使わないかではなく、何を記録し、何を記録しない(記憶にまかせる)という判断になってくるのでしょう。それは想像するよりも、簡単な問題ではなそうです。
▼今週の一冊:
何度も何度も何度も紹介している本ですが、なんとKindle版が登場したので改めてご紹介。
「知的生産」および「知的生産の技術」という言葉を生み出し、定着化させた一冊です。時代を超えて通用するノウハウや考え方が提示されていて、Evernoteを使っている人ならば、何かしらの示唆はきっと得られることでしょう。
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紙の本と、電子書籍と、電子書籍のお手伝いと、電子書籍のお手伝いやらで、いろいろ忙しいところです。それにメルマガとブログの更新をもあります。最近気がついたんですが、もしかして働きすぎなのでしょうか。どうも、その辺の感覚が(前職がコンビニということもあって)世間様と乖離している気がしてきました。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。