前回の続き。
前回では「知的生産」をいくつかの言葉と対比してみました。その中で、「知的生産」と「情報生産」の違いにも少し触れました。
今回はさらにそれについて考えてみます。
それって対比できてるの?
話を進める前に、前回の対比の問題点を探ってみましょう。
問題点とは、物と(知的)情報を比較するのは、まっとうな対比なのだろうか、という点です。つまり、知的生産と物的生産は違うものであろうが、それを横に並べて比較するのはどうなのだろうか、という疑問ですね。
前回、知的生産におけるインプットは、アウトプットを生み出さなければ「知的消費」になってしまう、と書きました。しかし、物的生産においては、材料を仕入れて生産しないことを「物的消費」とは呼びません。せいぜいが「過剰在庫」ぐらいです。
「物的消費」と言えば、私はポテトチップスを買ってきて食べる、といったイメージが浮かんできます。過剰在庫とは似ても似つかない風景です。
このズレはどこにあるのでしょうか。
一つには、物と情報の違いがあります。(一般的に)物は消費すれば無くなります。ポテトチップスの袋は空になるわけです。でも、情報は消えません。新聞を読んだところで、新聞が跡形もなく消え去る、なんてことはないわけです。その意味で、「消費」という言葉そのものが不適切な気もしてきます。なにせ消えないわけですから。
さて、どうしたものでしょうか。
知的活動の消費
『知的生産の技術』から引用してみます。
ここで知的生産とよんでいるのは、人間の知的活動が、なにかしらあたらしい情報の生産にむけられているような場合である、とかんがえていいだろう。この場合、情報というのは、なんでもいい。知恵、思想、かんがえ、報道、叙述、そのほか、十分ひろく解釈しておいていい。
知的生産で生み出されるものは、あたらしい情報であり、その情報とは知恵、思想、かんがえ、報道、叙述といった広い対象を含むものであるようです。そこは問題ありません。
ポイントは以下の部分。
「人間の知的活動が、なにかしらあたらしい情報の生産にむけられているような場合」
これを回りくどく言い換えると、人間の知的活動が、なにかしらあたらしい情報の生産にむけられていない場合は、知的生産ではないわけです。
そうすると、知的活動は行われているが、あたらしい情報の生産への志向性はない。そういう状況がありうるわけです。そして、それが知的消費と呼ばれるのです。
ここで消費されているものは一見情報のようでいて、実は違います。それは、思考や分析と言った頭脳労働であり、好奇心や発信欲求といった心の動きでもあります。そして、知的活動が人間によって行われることを踏まえると、そこに時間を加えることもできるでしょう。こうしたものが消費されるのが、知的消費です。
物的消費は物そのものを消費し、知的消費は知的活動を消費する。そんな風に捉えられるでしょう。そう考えると、ちょこんと横に並べて対比するのは、安易すぎるのかもしれません。
物と情報の相互関係
もう一つ『知的生産の技術』から引用します。
その情報が、物質やエネルギーの生産に役だつものであるにせよ、とにかく第一次的に知的活動の結果として生産されるのは、情報である。
情報は、物質の生産にも役立つとあります。つまり、知的生産が物的生産に影響を与えることもあるわけです。その意味で、この二つは完全に分離して考えるのではなく、相互作用のような捉え方をした方がよいのでしょう。
さらに言えば、物と情報は切り離せるものではありません。情報は、物に宿ります。その物が、ノートなのか本なのか新聞なのか液晶ディスプレイなのかメモリなのか電波受信機なのか脳細胞なのかはいろいろあります。しかし、情報はただ情報だけでは存在しえません。情報だけで存在し得るように感じる脳もまた物質です(※)。
※もちろん意識は物質ではありませんが。
少なくとも、物と情報を二項対立だけで捉えてしまうのは、少々単純すぎる構図とは言えそうです。
さいごに
知的生産と情報生産の違いについて考えるつもりでしたが、物と情報の違いでほとんど終わってしまいました。情報生産についてはまた次回考えてみます。
とりあえず、あたらしい構図が必要である、という点ははっきりしました。どこかの段階で、前回のマトリックスを改めることになるでしょう。
ちなみにこの連載は、明快な答えが先にあってそれに向けて書き進めているものではありません。私自身も手探りな状態です。なので、記事に頂いた感想・コメントなども踏まえてブラッシュアップしていきたいと考えています。今回の「問題点」もコメントにて頂いたものです。
きっとこういうやり方も、あたらしい知的生産の一形態と言えるような気がします。
▼参考文献:
ぜひとも参考にすべき一冊であり、乗り越えなければいけない一冊でもあります。
▼今週の一冊:
次々に進化するデジタルテクノロジー。その先にはどんな社会が待っているのか。そして、人間はその社会でいかにして生きるのか。そんなことが語られた一冊です。
私たちを取り囲むデジタルは、どんどんとその勢いを増しています。ビッグデータの話からは、デジタルが私たちを導こうとしている雰囲気すら感じます。それはたしかに便利なことなのでしょうが、そのまま身を委ねていて本当に大丈夫なんだろうか、と本書では問題提起されています。
単なるデジタル批判ではなく、最新のデジタルテクノロジーをきちんと紹介しながらも、根本的に私たちが大切にすべきなのは何なのか、という著者の主張が提示されていきます。バランス良い一冊です。
きっと、普段ネットウォッチしていない人は、驚くテクノロジーにたくさん遭遇することでしょう。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。